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最高裁判所第二小法廷 平成9年(あ)196号 決定 1998年6月16日

本籍

東京都渋谷区大山町三九番

住居

同所同番一六号

会社役員

松本孝司

昭和二五年一月三〇日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成九年一月二九日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立てがあったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人山崎龍一、同塚越豊の上告趣意は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 大西勝也 裁判官 根岸重治 裁判官 河合伸一 裁判官 福田博)

平成九年(あ)第一九六号所得税法違反被告事件

上告趣意書

被告人 松本孝司

右の者にかかる所得税法違反被告事件について、弁護人は、左のとおり上告趣意を述べる。

平成九年六月三〇日

右弁護人 山崎龍一

最高裁判所第二小法廷 御中

目次

はじめに・・・・・・一七二二頁

第一 原審判決の法令違背(所得税法第二三八条第一項の解釈の誤りについて)・・・・・・一七二三頁

一、所得税法第二三八条第一項の解釈について(とりわけ、「偽り」「不正な方法」なる構成要件の解釈について・・・・・・一七二三頁

二、原判決認定事実によっても、被告人の行為は、所得税法第二三八条第一項所定の構成要件に該当しない・・・・・・一七二五頁

第二 被告人には本件事案につき、「脱税の故意」が欠けていること・・・・・・一七二九頁

一、問題の所在・・・・・・一七二九頁

二、被告人は当初株式譲渡契約ではなく賃借権・営業権の譲渡を希望していたという重大な事実について・・・・・・一七三一頁

三、被告人が、希望していた賃借権・営業権の譲渡ではなく、本件株式の譲渡をする旨の株式譲渡契約に応じた理由・・・・・・一七五二頁

四、取締役会議事録作成にかかる三菱銀行担当者の重大な関与について・・・・・・一七六一頁

五、被告人の「脱税の故意」についてのまとめ・・・・・・一七六三頁

第三 本件株式の帰属主体について・・・・・・一七六四頁

一、本件株式の帰属主体についての第一審及び控訴審判決の認定の基礎について・・・・・・一七六四頁

二、被告人が二万株式を譲り受けた当時の本件株式の経済的価値並びに被告人の企図した新宿西口メガネの再建策について・・・・・・一七六七頁

三、トス名義による新宿西口メガネの株式払込金三〇〇〇万円について・・・・・・一七七〇頁

四、本件株式譲渡の実質的な受益者について・・・・・・一七八一頁

第四 被告人の供述調書の信用性・証拠力の評価に対する誤り・・・・・・一七八七頁

一、全体的な批判について・・・・・・一七八七頁

二、被告人の昭和六三年一一月から平成四年三月ころまでの間の認識について・・・・・・一七八八頁

三、被告人の供述調書に対する重大な影響・・・・・・一七九〇頁

四、検察官作成の供述調書の信用性・証拠力について・・・・・・一七九一頁

第五 中川宏利の証人申請却下の違法性について・・・・・・一七九七頁

一、弁護人と中川宏利との面談の結果・・・・・・一七九七頁

二、中川の陳述の要旨・・・・・・一八〇一頁

三、中川の二度に亙る証人申請の却下とその違法性・・・・・・一八〇三頁

第六 結論・・・・・・一八〇五頁

はじめに

控訴審判決は、第一審判決の認定事実をほぼそのまま採用し、またその理由とほぼ同様の理由を述べた上で被告人の控訴を棄却した。

弁護人は、控訴審において、第一審判決の証拠の証明力に対する評価の重大な誤り・誤解・曲解を指摘した上で、事実認定の明らか且つ重大な誤りを指摘し、被告人にかかる所得税法違反の事実に関する表象・認容の欠如、ひいては違法性の意識に影響をもたらす法律の錯誤(違法性の意識の欠落に関する問題を含む)に至る迄、その問題点を指摘した。しかし、控訴審判決は、第一審判決と同様、有罪に適する証拠だけをもとに事実認定をなした上、これを羅列し、有罪の方向に反する多くの証拠については、すべてこれを無視するか、或いは、意識的にこれを避け、その経験則に反する推測論・可能性論を反論としてとどめるなどして、被告人の主張を全面的に否定し、被告人の行為が、所得税法第二三八条第一項記載の構成要件に該当すると即断している。そこには、弁護人の真摯な努力に基づく主張に対する判断がまったく欠落している箇所さえあり、誠に遺憾なものがある。

しかし、被告人の本件にかかる一連の行動を見る限り、およそ所得税法第二三八条第一項が予定している行為を基礎づける行為があったと判断することはできず、更に同法の違反を基礎づける故意の存在についてさえ、否定的に作用する多くの事実が存在することが明らかであり、脱税を企てた犯罪者として説明のつかない多くの事実があることに容易に気付くはずであり、気づくべきである。

控訴審判決及び第一審判決は、所得税法第二三八条第一項に規定する脱税の犯意についての解釈を誤った法令違背があり、更に、いわゆる採証法則違反・経験則違反の結果、判決に影響を及ぼす重大な事実誤認をしていることが明らかであり、これをそのまま維持することは正に正義に反することになる。

弁護人は、本件上告審において、控訴審判決及び第一審判決の判決に影響を及ぼす法令違反、見逃すことのできない重大な事実誤認等を指摘し、控訴審判決を維持することが正義に反することを以下に述べ、上告趣意を展開する所存である。尚、本上告趣意の理由は、原審において提出した控訴趣意書・控訴趣意補充書・弁論要旨に記載した理由を再度繰り返し述べる箇所もあるので、必要に応じそれらを再度引用する形で簡潔に記したい。

第一、被告人には、本件事案につき、所得税法第二三八条に規定される「偽りその他不正な方法を利用しての脱税の故意」が欠けており、更に、控訴審判決は、同条の解釈を過った違法がある(法令違背)。

便宜上、本項において、控訴審判決が犯した同条にかかる解釈の誤りについて指摘した上、第二以下において、採証法則違反・経験則違反に基づく重大な事実誤認の結果、被告人の行為に脱税の故意を認定した誤りについて言及する。

一、所得税法第二三八条第一項は、『偽りその他不正の方法により』、『所得税の額につき所得税を免れ』、または、『所得税の還付を受け』た行為について、これを罰する旨定めている。

1、まず、右構成要件中、『偽りその他不正な方法により』なる要件についてであるが、右要件は、刑事法の典型一般法である刑法に定める各規定の要件に比して、その規定の仕方において、極めて包括的・概括的な表現がなされている。いわゆる開かれた構成要件と言えよう。『偽り』とは、刑事法においては、元来事実を偽ることであるが、その形態の中には様々なものがある。本条における解釈としては、意図的に事実とは反した状態を作出し、これを積極的に利用した場合と考えられるべきである。けだし、そのように解釈しないと、余りに構成要件が広過ぎて、罰則を定める条項の解釈として歯止めがないからである。そして他方、罪刑法定主義の原則からも厳格解釈が当然のように要請されるからである。また、右行為は、単に外形的にそうした意図的に事実に反した状態を作出しこれを積極的に利用するという行為があっただけでは不足し、行為者においてこうした行為を認識の上積極的に敢行するという意思がなければならない。この考え方は、いわゆる主観的違法要素に関する一連の議論において考えられるものと同様のものがある。そうした主観的側面においても「偽る」という積極的な違法要素が行為に滲み出ているときに初めて全体としての違法性が肯定されるのである。

こうした解釈は、所得税法違反の行為が、一旦自己の支配下に所得が帰属した上でこれに対する税を免れるという犯罪形態であることから、他人から金員を奪い取る等の行為に比較し、動機において同情・斟酌すべきものがあるからでもある。

2、続いて、右構成要件中、『不正な方法』なる要件についても、右と同様、厳格な解釈が必要である。『不正な方法』なる要件は、『偽り』なる要件に比して、更に開かれた構成要件と言うべく、違法性の存否を合わせて考えなければ、構成要件該当の有無を論定することができない(団藤重光・刑法綱要総論一四一頁)と言える。従って、『不正な方法』なる要件を解釈するためには、当該行為が、単に形式的にでなく実質的に全体としての法秩序に反する程の違法性を伴った積極的側面を有する不正行為であるとされなければならない。このことは、罪刑法定主義の原則からも当然のように要請される。また、右違法性を伴った積極的側面を有する不正行為について、行為者の客観的要素ばかりではなく、主観的側面においても違法性の認識の存在が顕著でなければならない。この点はいわゆる主観的違法要素の問題であるが、前同様、そうした主観的側面においても違法要素が滲み出ているときに初めて全体としての違法性が肯定されるのである。

3、本件における被告人の一連の行為は、原審段階における弁護人提出の控訴趣意書、控訴趣意補充書、弁論要旨にその詳細を述べたが、原審判決はこれをことごとく否定し、『偽り』『不正な方法』なる要件の説明に必要な点のみを強調する手法で、被告人の行為について所得税法第二三八条第一項に定める構成要件を充足していると安易に判断をしてしまった誤りがある。

被告人の一連の行為に存する問題点については、後述するが、控訴審判決の指摘する認定事実が、果たして所得税法第二三八条第一項に規定する『偽り』『不正な方法』なる開かれた要件に該当し、更に実質的違法性を具備するものであるか、更にまた、主観的違法要素を伴うものであるかを検討し、それらがいずれも具備していないことを指摘したい。

二、被告人の行為には、所得税法第二三八条第一項に定める『偽り』『不正な行為』が存在しない。

1、同条は、言うまでもなく行為者において、偽りを用い、その他不正な行為をしているとの認識を有しながら、税を免れるという脱税の故意が存することを要求している。過失、思い違いによる脱税的結果が生じた場合には、積極的な反事実作出行為がなく、主観的側面も含め実質的な違法状態が認められないから、当然のごとく、同条の構成要件には該当しない。

控訴審判決は、被告人の一連の行為について、次のとおりの認定をした上で、第一審判決の解釈を踏襲し、被告人の行為について、所得税法第二三八条第一項記載の『不正な行為』が存在するとして同条の構成要件該当性を認めているが、先に述べたように、開かれた構成要件である『偽り』『不正な行為』は厳格に解釈されなければならないところ、そのような手法による解釈がなされておらず、そればかりか、『偽り』『不正な行為』なる事実の摘示すらしていない甚だしい法令違背があると言わなければならない。

すなわち、控訴審判決の結論部分は、次のとおりである。

これまでに判示した経緯に照らすと、被告人が本件株式の帰属主体がトスではなく被告人であることを知悉していたことは明らかである…(一六頁三行目)。

控訴審判決は、この結論を述べるために、「被告人は、原審公判の途中から論旨に沿う供述をし、当審公判においても同様の供述をしている。しかしながら、原判決が挙示するその余の証拠によれば、以下の事実が認められ、これによると、本件株式は被告人に帰属することは明らかである」として、以下五二行に亙り、認定事実を時系列的に羅列し、これを引用する形で、前記のような結論を導き出している。しかしながら、何をもって、所得税法第二三八条に規定する『偽り』の方法、『その他不正な方法』を利用して脱税したのかについて、判示するところがなく、その言わんとすることが不明である。時系列的に述べた部分を引用して判示したのは、本件株式の帰属主体がトスではなく被告人であると述べるにとどまり、被告人の行為を捉えてそれが偽りその他不正な方法による脱税行為であるとは指摘していないのである。

被告人及び弁護人は、控訴趣意書において、本件の被告人の脱税行為は、過失脱税罪とも言うべき行為であり、偽りその他不正な方法は存在しない旨主張した。とりわけ不正な方法については、前述のように、主観的違法要素たる故意の側面が重視されるべきところ、控訴審判決はそのような手法を採用せず、被告人の行為が結果的に脱税の構成要件(所得税法第二三八条第一項)に該当する、偽りその他不正な行為の指摘はできないものの被告人の行為は右構成要件は該当性があるという手法で理由を述べたにとどまるものがある。しかし、それは過った法規の解釈である。

控訴審判決は、何故に被告人の行為が所得税法第二三八条第一項に該当するのか、一体いかなる行為が同項に規定する『偽りその他不正な方法』に該当するのかについて、判断を遺漏した誤りがあると言わなければならない。

この点について、控訴審判決は、理由中の判断において、偽りその他不正な方法について特定してその理由を掲げていない。理由を掲げていないことは、そうした点についての解釈がなされなかったことにつながり、審理の対象として捉えられていなかったことを意味するものがある。

繰り返しになるが、本件事案は脱税事件としては、極めて特殊なケースであると言えよう。すなわち、被告人は、本件株式譲渡に関して、脱税をする上で最も重要な要素となる譲渡代金の授受(売買契約における売主の立場に関連する)につき、一切「他人名義」を介在させず、自ら銀行振出小切手を受取り、かつ、自己名義の普通預金口座への入金を依頼していることである。昭和六三年当時としては巨額な一七億四〇〇〇万円に対する所得税を免れる目的や計画が、被告人に当初からあったとすれば、「他人名義」による株式譲渡という手段を採用したのであれば、経験法則上、金銭の授受に関し脱税の常套手段である他人名義の銀行口座の開設、その口座への入金処理という隠匿工作を当然に採用していなければならないし、そうでなければ、譲渡益の秘匿のために「他人名義」を使用した意味がない。被告人は、控訴審判決認定のとおり、株式の売買契約締結の際には、自己の名前を堂々と記載しており、代金受領の領収書も自己名義で記載した。そして代金の入金先も自己名義の銀行口座であり、これまた他人名義を利用していない。さすれば、被告人は、積極的に「他人名義」を作出しこれを利用したという側面が一連の行為の中において見られないと言わなければならない。控訴審判決の認定に従っても、被告人のしたことは、他人名義を利用した上での売買契約は締結していないし、他人名義を積極的に利用した側面は一切ないと言わなければならない。従って、被告人には、所得税法第二三八条第一項に言う実質的な『偽り』なる行為が見られないことが明らかであり、意図的に事実とは反した状態を作出し、これを積極的に利用したという行為の側面が一切ないと言わなければならない。控訴審判決は、こうした厳格な解釈が要請される所得税法第二三八条第一項の解釈を極めて安易になし、行為者の行為の客観的要素ばかりか、主観的違法要素についてこれを意識することなく、漫然と構成要件に該当するとの結論を導いたものであり、法の解釈という基本的姿勢に大きな失点を残した違法があると言わなければならない。

更にそればかりか、譲渡代金を当該名義人があたかも受領したかのような形式を採用することさえもしていない被告人の行為を認定しながら、開かれた構成要件である「不正な行為」があった旨認定をなしている。しかしながら、前同様、控訴審判決認定の事実によっても、被告人の一連の行為の中において、他人名義での売買契約の締結・他人名義での代金の受領・他人名義の送金先の設定は一切見られず、脱税の目的下における『不正な方法』すらしていないことが明らかである。

右のように、被告人は、控訴審判決認定の事実によっても、所得税法第二三八条第一項所定の「偽りその他不正な方法」なる開かれた構成要件を充足させる行為をしていないと言うべきであり、結果、同条の解釈に看過することのできない法令違背を犯してしまったと言わざるを得ないのである。

尚、所得税法第二三八条第一項に規定する「偽りその他不正な行為」なる開かれた構成要件的要素は、客観的側面・主観的側面に亙り、被告人の一連の行為の直接事実・間接事実・事情等を含む様々な事実の積み重ねによる認定において、その適否が判断されるべきであるが、控訴審判決の手法はそのような手法ではなく、実に安易に、しかも厳格性を欠いた姿勢でなされたものであり、刑事法を解釈するために必要な厳格性という最も重要な視点を欠いた大きな誤りがあると言わなければならない。

被告人の一連の行為には、控訴審判決認定の事実によるも、所得税法第二三八条第一項所定の「偽りその他不正な方法」に該当する行為は存在しない。

また、弁護人は、右に加えて、被告人には、所得税法第二三八条第一項に規定するいわゆる脱税にかかる故意が存在しないことについて、次項以下において主張したい。

第二、被告人には本件事案につき「脱税の故意」が欠けていること

一、問題の所在

1、前述したように、本件事案は脱税事件としては、極めて特殊であると言わざるを得ない。すなわち、被告人は、本件株式譲渡に関して「他人名義」を使用しながら、譲渡代金の授受につき「他人名義」を介在させず、自ら銀行振出小切手を受取り、かつ、自己名義の普通預金口座への入金を依頼していることである。所得税を免れる目的や計画が被告人に当初からあったとすれば、「他人名義」による株式譲渡という手段を採用した以上、経験法則上、金銭の授受に関し脱税の常套手段である他人名義の銀行口座の開設、その口座への入金処理という「所得隠し」のための隠匿工作を当然に採用していなければならないし、そうでなければ「他人名義」を使用した意味がない。他人名義の使用、並びに、譲渡代金を当該名義人があたかも受領したかのような工作は、脱税の目的の「偽り不正な方法」におけるワンセットであり、そのどちらが欠けても、他人名義による譲渡の、客観的・外形的な構成要件である「偽り不正な方法」は完成していないことになる。

被告人は、証拠上明らかに、譲渡代金の授受に関して右のような隠匿工作を一切施していない。客観的・外形的な「不正な方法」の欠如は、そもそも被告人の脱税の目的、計画性を十分に疑わしめるものと言わざるを得ない。

2、右のように、被告人には、当初から株式譲渡益に対する所得税を脱税する目的も計画性もなかったのではないかという疑問を前提とすると、被告人が第一審、控訴審において主張していた個々の事実が、容易に理解することができるのである。

被告人においては、さくらやとの取引に関して、はじめから新宿西口メガネの株式譲渡を希望していたのではなく、前の交渉先のヨドバシカメラと同様に、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を希望していたことは、証拠上明らかである。言うまでもなく、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡は、譲渡人が新宿西口メガネという株式会社であり、その譲渡代金は新宿西口メガネが取得することになる。したがって、当時の被告人には、新宿西口メガネの株式が被告人の所有か否かにかかわりなく、同社の株式の譲渡代金に課税される所得税を脱税する意思も、計画も全くなかったことは当然のこととなる。被告人が当初さくらやとの取引に関し、新宿西口メガネの何を、どのような契約形式で、いくらで譲渡したかったかの事実の認定は、被告人の脱税の意思、計画性あるいは悪質性の有無を認定する上において、極めて重要な事実認定となり、被告人の故意につき重大な影響を与えるものである。

しかし、第一審判決及び控訴審判決は、右事実を無視ないし曲解して、至極簡単に「被告人は、さくらやに対し、そのメインバンクの三菱銀行を通じて、新宿西口メガネの株式を譲渡したい旨の申込みをし」(控訴審判決五頁)と認定している。被告人が当初から新宿西口メガネの株式の譲渡を希望していないとすれば、前述のとおり、被告人において、さくらやとの取引の当初、株式譲渡代金に課税される所得税を脱税する意思も、計画もなかったことは明らかである。したがって、第一審判決及び控訴審判決は、被告人の脱税の意思及び計画性を認定するためには、被告人の主張及びそれを基礎づける証拠を無視ないし曲解して、当初からの被告人の希望取引形態を「株式譲渡契約」と認定せざるを得なかったのである。そうだとすれば、第一審及び控訴審の右認定は、重大な事実誤認であり、かつ、それを維持するのは著しく正義に反するものと言わざるを得ない。

弁護人は、この第二において、第一審及び控訴審が、被告人の目指していたヨドバシカメラ、さくらやに対する契約形態を曲解している事実、その曲解事実のうえで、被告人の脱税の故意、計画性を認定しているか、右判決のいわゆる採証法則違反、経験法則違反を詳細に論証する。

二、被告人は当初株式譲渡契約ではなく賃借権・営業権の譲渡を希望していたという重大な事実について

1、ヨドバシカメラとの営業譲渡仮契約から、さくらやへの本件株式譲渡までの経過について

(一) 被告人が他人名義を使用した株式譲渡契約を締結したにもかかわらず、何ら所得隠しの工作をしていないことの原因は、被告人が当初希望していた新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡が三菱銀行の担当者の説得によって、同社の株式譲渡に変更されたためである。右の事実からすれば、当初から被告人が株式譲渡所得に対する課税を免れる目的、計画を有するはずはなく、被告人が当初さくらやとどのような取引を希望していたかは、非常に重要な事実なのである。

(二) ヨドバシカメラからさくらやに変更される経過の概要及びそれを基礎づける証拠関係は次のとおりである。

(1) 被告人は、新宿西口メガネの店舗に隣接するヨドバシカメラの要請に応じて昭和六二年六月二九日に、整理管理人の管理下にあった新宿西口メガネの賃借権・営業権を譲渡する旨の仮契約を締結した。右契約の当事者は、本来会社同志となるが、被告人が譲渡人として署名捺印している。これは被告人が西口メガネの代表取締役であっても、当時の新宿西口メガネは整理管理人の管理下にあったため、同社の代表印等が使用できず、個人名による契約となったからである(証拠‥営業譲渡の仮契約書の存在)。

(2) 被告人は、翌昭和六三年五月頃に、トスの取引先が相次いで倒産したため、トスが資金繰りに窮したことから、右営業譲渡仮契約に基づき、中断していたヨドバシカメラとの取引交渉を開始した。しかし、ヨドバシカメラ側が仮契約当時の譲渡代金二〇億円を一七億円くらいに値切ったため交渉は決裂した(証拠‥第一審第八回公判・被告人調書四三丁、同第二回公判・飯柴正美証言調書五丁裏、ヨドバシカメラとの交渉決裂の原因として「私は初めに(ヨドバシカメラが)提示していた金額が下がったということが記憶あります」)。

(3) 被告人は、ヨドバシカメラとの交渉決裂後、三菱銀行新宿南口支店に対し新宿西口メガネの賃借権・営業権譲渡の仲介を依頼し、ヨドバシカメラとの営業権譲渡仮契約書、及び新宿西口メガネの店舗賃貸借契約書のコピーを同支店長に渡し、実際に仲介を担当した同銀行情報開発部の担当者も、被告人が、新宿西口メガネの賃借権・営業権を譲渡したい旨を希望していたことを認識していた(証拠‥第一審第九回公判・被告人調書一〇~一一丁、第一審第二回公判・飯柴調書二丁)。

(4) 被告人は、昭和六三年一一月一五日に、三菱銀行新宿支店長室において、初めてさくらやの羽倉秀秋社長と会った。その会合に出席したのは、被告人と羽倉社長以外に、同銀行新宿支店長、同副支店長、同銀行情報開発部の木下次長その他二名であった。被告人は、ヨドバシカメラとの仮契約等の経過を説明したうえで、さくらやに対し、ヨドバシカメラと同様に、新宿西口メガネの賃借権・営業権を譲渡代金二〇億円で譲渡したい旨、同社長に申し入れた(証拠‥第一審第九回公判・被告人調書一一丁~一四丁、同第三回公判・羽倉秀秋証言調書五丁、ヨドバシカメラとの仮契約の内容が「売買契約二〇億円という根拠です」、取引の対象について「二〇億円で新宿西口メガネの営業権をということです」)。

(三) 右の経過及びそれを基礎づける証拠関係からして、被告人が、トスの経営危機に対処するために進めていたヨドバシカメラとの交渉が、前年の仮契約に基づく新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡であることば明らかである。更に、その延長線であるさくらやに対する取引も、被告人の意図するところが、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡であることも明らかである。

また、企業買収・M&Aの専門部署である三菱銀行情報開発部が、被告人において、新宿西口メガネの何を、どのような形式で、いくらで売りたいのか、という売主側の意向・希望を確認し、その資料を入手するのは当然である。取引の仲介者として、最初に売主側の意向・希望などを確認することは、取引の常道・常識であり、基本中の基本である。

前述した事実経過及びそれを基礎づける証拠関係を素直な目で検討すれば、被告人がヨドバシカメラと交渉していたのは、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡であり、その後のさくらやに対する取引も、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を希望していたことは明らかなのである。

したがって、新宿西口メガネの本件株式が被告人所有と否かにかかわりなく、当時の被告人には、新宿西口メガネの株式譲渡代金に課税される所得税を脱税する意思も、計画も全くなかったことは明らかである。この事実を無視ないし曲解(「当初から被告人が株式譲渡の取引を申し込んだ」という曲解)をし、そのうえで、被告人の所得税脱税の意思、計画性、並びに悪質性を認定する控訴審判決及び第一審判決は、重大な採証法則違反、重大な経験則違反を犯しているものであり、かつ、著しく正義に反する事実誤認を行っていると言わざるを得ない。

2、第一審判決及び控訴審判決の「被告人がさくらやに本件株式の譲渡を申し入れた」と認定する根拠について

(一) 認定の根拠となる各供述・証言の指摘

第一審判決及び控訴審判決の右認定をした根拠は、証拠上、ヨドバシカメラの藤沢昭和社長の検察官に対する供述(甲二四号証検面調書第三項)、三菱銀行情報開発部の飯柴正美の検察官に対する供述(甲一二号証検面調書第四項)並びに、さくらやの羽倉秀秋社長の検察官に対する供述(甲一一号証検面調書第三項、第五項)、並びに、同人らの第一審公判廷における右供述に沿う証言である。しかし、同人らの供述及び証言を詳細に検討すれば、そのまま信用することはできないことは明らかである。

(二) ヨドバシカメラの藤沢昭和社長の供述の信用性について

(1) 藤沢社長の右供述は、被告人との間において、新宿西口メガネに関する第二回目の交渉があったことを認めるもの、「被告人が新宿西口メガネの株式を買わないかと持ち掛け、その株式代金は二〇億円位で、値段が折り合わず、この時の話も消えてしまった」旨の供述であるが、これは、さくらやとの基本合意書締結後になされた被告人と同人との新宿西口メガネの株式譲渡の交渉と完全に混同している供述であり、明らかに間違いである。

(2) 藤沢社長が第二回目の営業譲渡仮契約に基づく交渉と、第三回目のさくらやとの取引後における株式譲渡の交渉とを完全に混同していることは、次の点から明らかである。

<1> 藤沢社長の甲二四号証検面調書第三項には「(営業譲渡の仮契約の話がなくなった後)松本から新宿西口メガネの株を買わないかという話が持ち込まれました。松本の話から、株主のうち店長をしている長嶋が持っている株は思ういようにならないようでしたが、その他の株は松本が好きなようにできる株だと、私の方では理解していました。松本が提示してきた株の代金は二〇億円位ではなかったと思いますが、値段などが折り合わずに、この時の話も消えてしまったのでした」と記載されている。

右の藤沢社長の供述に従えば、当時被告人が「好きなようにできる株」は、トスが保有すると主張している六万九六〇〇株であることから、被告人は藤沢社長に対し、新宿西口メガネの株式六万九六〇〇株を代金二〇億円で売りたいと申し入れたことになる。しかし、そうなると前年の新宿西口メガネの賃借権・営業権全部を代金二〇億円で売却する営業譲渡仮契約との間のバランス・整合性が全く失われ、不可思議な取引の申し入れとなってしまうのである。すなわち、新宿西口メガネの店舗の場所的価値及び資産全部を譲り受けるに際して、長嶋ら従業員の株式一万〇四〇〇株を除く六万九六〇〇株の譲渡と、賃借権・営業権全部の譲渡では、単純な損得勘定の比較で、同じ二〇億円では株式譲渡のほうが買主として損をすることになる。被告人が、前年の営業譲渡仮契約を無視して、賃借権・営業権の譲渡ではなく、自分(トス)の支配する株式だけを同じ代金二〇億円での売買をヨドバシカメラに申し込むのは、取引の常道・常識に反することは明らかで、この当時において、被告人が自己(トス)の支配する株式だけの譲渡をヨドバシカメラに売り込むことは常識的には考えられないのである。

また、株式譲渡契約の形態では、長嶋ら従業員の株式を譲渡するよう説得する困難性があることを藤沢社長自身がくしくも認めるように(「長嶋の持っている株式は思うようにならない」)、被告人には、長嶋ら従業員に対する説得の必要性のある株式譲渡契約の形態(いわゆる「他人の物の売買」を含む契約形態)より、仮契約締結の実績まである新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡契約の形態のほうが、ヨドバシカメラに対し、より簡便で、より説得力のある取引の申し入れとなる。被告人が、何度も主張するように、当時においては、新宿西口メガネの株式譲渡による二〇億円の資金の調達方法は夢想外のもので、全く考慮の余地のないものであった。

<2> 昭和六二年の営業譲渡仮契約の締結当時、及び昭和六三年の第二回目の交渉当時においては、さくらやというヨドバシカメラのライバルが出現する前であるので、被告人とヨドバシカメラとの契約関係の周辺環境・事情は何ら変化がないので、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を同社の株式譲渡に切り替える合理的な理由は、被告人にも、ヨドバシカメラにも存在していない。第一に、被告人としては株式譲渡にすると、自己(トス)の支配する株式が六万九六〇〇株で、その残り一万〇四〇〇株の従業員株式の代金が当然に代金総額から差し引かれることから、最初に手に入る資金が減額されるばかりか、従業員に対し株式を譲渡するよう説得しなければならないマイナス面が生じてくるのである。第二に、ヨドバシカメラは、新宿西口メガネの店舗の賃貸人の協立商会と友好関係にあり(第五回公判調書五丁の藤沢社長の証言からも窺える)、店舗賃借権の譲渡の承諾に何ら問題はなかったにもかかわらず、新宿西口メガネの株式譲渡となれば、藤沢社長自身も前記のごとく認識するように、果たして長嶋ら従業員が株式を譲渡してくれるのかというリスクを負うことになり、マイナス面が生じてくるのである。

すなわち、さくらやが出現する前の段階における被告人とヨドバシカメラとの間において、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を同社の株式譲渡の形態に切り替えることは、双方にとってマイナス面が生じ、何らメリットのない取引となる。したがって、被告人が前年の営業譲渡仮契約を無視して株式譲渡の取引をヨドバシカメラに持ちかけ、ヨドバシカメラもその交渉に応じることは、極めて不自然であり、常識的にはあり得ないことなのである。

<3> 第一審における藤沢社長の証言では

(問)仮契約書には二〇億と書かれていますが、それが最終的には二八億位になったという記憶がありますか。

(答)あります。 (第一審第五回公判調書三丁)

とあるように、藤沢社長の記憶では営業譲渡仮契約から発展して最終的には二八億円の取引となったという理解をしており、その前後関係の証言内容からして、同人は取引の金額は記憶していても、どのような契約内容、形式であったか、よく記憶していないことが明らかになっている。

藤沢社長の検察官に対する供述の当時の同人の記憶としても、さくらやから新宿西口メガネの株式を取り戻す条件にて、最終的に被告人との間で新宿西口メガネの株式譲渡契約を締結したことから、さくらやが出現する前の交渉も株式譲渡の交渉であると、思い違いをしたことは十分に推測できるのである。

(3) 前記<1>、<2>、<3>で述べたように、さくらやの出現以前に、被告人がヨドバシカメラに対し、前年の営業譲渡仮契約を無視して新宿西口メガネの株式譲渡を申し入れる合理的理由、ヨドバシカメラがそれに応じて交渉する合理的理由も全く存在しないことから、藤沢社長のさくらやとの取引前に「被告人から新宿西口メガネの株を買わないかと話が持ち込まれた」旨の供述は、最終的に平成元年三月二九日に締結された新宿西口メガネの株式譲渡契約の交渉と明らかに混同しているのである。

よって、被告人の「ヨドバシカメラとの交渉は、前年の営業譲渡仮契約に基づく新宿西口メガネの賃借権・営業権を二〇億円で譲渡する交渉であった」旨の主張が真実であり、藤沢社長の「長嶋(ら)を除くその他の被告人の好きなようにできる新宿西口メガネの株式を代金二〇億円で売りたいとの交渉であった」旨の供述は、前記のとおり、不自然で取引の常識に反し、合理性、信用性を欠くものと言わざるを得ない。

(三) 三菱銀行情報開発部の飯柴正美の供述・証言の信用性について

(1) 飯柴は、前記検面調書において「(三菱銀行新宿南口支店の営業担当者からの情報として)新宿西口メガネの経営者の松本から、新宿西口メガネの株式八万株を売りたいのだが、その譲渡先としてカメラのさくらやを考えている。ヨドバシカメラに売る交渉をしたのだが、担当者の交代のため、従業員引き取りを条件とするなら株式買い取り額を二億円減額すると主張したので交渉を不調に終らせた旨の情報を得た」旨供述している。しかし、これは、被告人とヨドバシカメラとの間において、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡の交渉があったのであり、全く間違った供述であることは明らかである。

(2) 飯柴は、第一審第二回公判において

(問)あなたが最初にこの情報に接したとき、新宿西口メガネをヨドバシカメラに売ることにして営業譲渡の仮契約まで結んだが、ヨドバシカメラとの取引は断わった、そこで、今度はさくらやに売りたいと被告人が言っているという内容の情報でしたか。

(答)そうです。 (同第二回調書二丁)

と証言している。しかし、飯柴はその後の証言で、被告人とさくらやの羽倉社長と引き合せる前には、ヨドバシカメラとの営業譲渡の仮契約書を見ていないし、第二回公判で初めて見たものと証言するに至り、被告人は新宿西口メガネの株式を売りたいということで持ち込んだとの検察官に対する供述を維持している(同第二回調書四丁)。また、売る側(被告人側)の意向は新宿南口支店、買う側(さくらや側)の意向は新宿支店が押えるという状況で、売る側の条件、希望は理論的には開発情報部に上がっているが、事実がどうだか分からない旨証言している(同第二回調書三丁裏)

(3) 右の飯柴の証言を聞く限り、当時の三菱銀行情報開発部は、売主側の条件、希望を全く考慮していなかったことになる。担当者の飯柴の前記証言によると、被告人とヨドバシカメラとの交渉が新宿西口メガネの営業譲渡の仮契約まで締結されたが破談となり、今度はさくらやに対し新宿西口メガネの株式八万株を売りたいと持ち込んできているとの情報に接しただけでとしている。飯柴はもとより、その所属の情報開発部は、ヨドバシカメラには営業譲渡、さくらやには株式譲渡と契約形態を変えているとの情報にかかわらず、何故に被告人が契約形態を変更したのか何ら疑問も生じず、その調査も確認作業もしていないことになる。

右事情は、企業買収、M&Aを担当した経験を持つ主任弁護人から見れば、担当部署・組織としては極めて職務怠慢なことで、常識的に考えられない。前述したように、企業買収・M&Aの専門部署が、売主側における会社の何を、どのような形式で、いくらで売りたいのか、という売主側の意向・希望・条件を確認し、その資料を入手するのは当然であり、更に、まず最初に売主側の意向・希望・条件などを確認することは、取引の常道・常識であり、基本中の基本である。飯柴の証言を総合すれば、飯柴は、新宿南口支店から、被告人はヨドバシカメラとの新宿西口メガネの営業譲渡の交渉を断わったうえで、今度はさくらやに対し同社の株式全部八万株を譲渡したいと言ってきたことになるが、何故にヨドバシカメラとさくらやとでは契約形態を変えるのかという疑問が一切生じなかったとするのも、専門家としての常識に反する。更に、ヨドバシカメラとの営業譲渡の仮契約書も事前に入手、調査確認も一切しなかったということも全く不可解である。

(4) また、売る側の条件、希望は新宿南口支店から情報開発部に上がっていたのではないかとの質問に対し、飯柴が「理論的にはそうですが、事実がどうだか分かりません」と証言しているのは、全くのまやかしに過ぎない。企業買収、M&Aの進め方の基本は、売主側の意向・希望・条件を精密に分析し、その売主側の希望条件等のうちに、買主側との協議のうえ、承諾できるものとできないものの選別、今後の協議・交渉でまとめていく事項、調査すべき事項等により分けて対応策を策定していくのであって、売主側の条件、希望が担当部署に上がっているかどうかわからないというのはあり得ず、事実に反する。三菱銀行の情報開発部においては、右のようなまやかしやゴマカシをしなければならない事情があったとしか考えられないのである。

それを端的に言えば、次の三点である。

<1> 第一に、被告人の希望するヨドバシカメラと同様の新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡の契約形態を、強引に株式譲渡契約の形態に変更させたことを隠蔽するためである。すなわち、そのためには、何が何でも被告人が当初から新宿西口メガネの株式譲渡を希望していたことにしなければならないのである。

<2> 第二に、株式譲渡契約の形態に変更させるために、被告人に対し株式譲渡には節税効果があるとか、賃借権・営業権の譲渡と株式譲渡は実質的に同じであるとか言って被告人を説得した事実を隠蔽するためである。

<3> 第三に、本件事案が生じたことに関し、前記第二に関連して三菱銀行が積極的に脱税に関与したと判断されることを回避するためである。

(5) 前述したように企業買収・M&A専門部署の担当者が、売主側の意向・希望・条件等の確認作業も、資料の蒐集も全く行わなず、出先機関の支店サイドに留め置くことは非常識であり、職務怠慢を問われても言い訳できないものである。いくつもの企業買収案件を経験した担当者であれば、なおさら、その職務怠慢行為はますます不可解なものである。通常では考えられない行為したと供述、証言する者には、当該行為をなすうえで何らかの事情・原因があるもの、あるいは、その供述、証言自体が虚偽であると理解するのが我々の経験則である。本件の場合、飯柴ら三菱銀行の情報開発部の担当者が、通常なすべき売主側の意向・希望・条件の確認、資料蒐集を怠ったことについて、これを説明できる何らかの事情・原因は一切ない。すなわち、仮に、飯柴証言のように、売る側(被告人側)の意向は同銀行新宿南口支店、買う側(さくらや側)の意向は新宿支店が押えるという状況があったとしても、企業買収・M&Aの専門部署である情報開発部が、売主、買主双方の意向、条件その他の情報等を集約しなかった理由にはならない。同じ銀行内であることにより、同銀行の情報開発部への売主、買主双方の意向、条件等の集約は極めて容易であったはずである。その事情・原因がないならば、飯柴ら担当者はその職務を正確に遂行したはずであり、情報開発部に売主側の意向・希望・条件が上がったどうか分からないとか、事前にヨドバシカメラとの営業譲渡仮契約書を見ていないとの証言は虚偽としか考えられない。

被告人が、さくらやに対しても、ヨドバシカメラと同様に新宿西口メガネの賃借権・営業権を代金二〇億円で売りたいとの希望・条件は、その仮契約書とともに正確に情報開発部にもたらされていたのである。これが企業買収・M&A取引に携わる者の常識なのである。

以上のとおり、飯柴の供述、公判廷における証言は、到底信用できないのである。

(6) 被告人の「さくらやに対する申込みは、当初から新宿西口メガネの賃借権・営業権を二〇億円で譲渡する交渉であった」旨の主張と、飯柴の「被告人は、さくらやに対し新宿西口メガネの株式八万株を二〇億円で売りたい申し入れてきた」旨の供述、証言と比較して、どちらを信用するかについては、前述した事項以外に、第一に、契約交渉の継続性という観点と、第二に、八万株全部が被告人(トス)の支配する株式ではなかったことから、当時の被告人において、長嶋ら従業員の株式一万〇四〇〇株をさくらやに譲渡することができたかの可能性を検討すれば明らかになる。

第一の契約交渉の継続性という観点からすれば、従来交渉を継続してきた物の売り方、契約形態を変えることは何らかの契機がなければできないということである。これは、また人間の心理にかかわる問題である。すなわち、ヨドバシカメラに対する交渉は、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡であったことは、前述したとおりであり(第一審判決及び控訴審判決の認定は重大な事実誤認)、これをさくらやに対して新宿西口メガネの株式の譲渡の契約形態に切り替えるには、それ相応の理由が必要になる。しかし、取引申し入れ当時の被告人には、賃借権・営業権の譲渡から株式譲渡に切り替える理由・事情は、どこにも存在しない。むしろ、株式譲渡取引への変更は、当然に被告人(トス)の手にする代金額が従業員株式分だけ減額になるし、従業員に譲渡するよう説得しなければならなくなるなどマイナス面が出てくるだけである。

第二の従業員株式の譲渡は可能であったかについては、さくらやへの譲渡に反対する従業員の反撃に会うなど惨憺たる結果に終り、被告人の説得においては如何ともしがたく、従業員株式一万〇四〇〇株をさくらやに譲渡することは不可能であったのは明らかである。更に、さくらやに対する取引申込み時において、被告人が、事前に従業員株式を譲渡できるかどうか長嶋らに打診をしている形跡は全くない。したがって、被告人がさくらやに対し、新宿西口メガネの全株式八万株を売りたいと申し込むはずはないのである。確実に新宿西口メガネの賃借権・営業権などの全資産を譲渡できる方法、契約形態があるにもかかわらず、いわゆる他人の物の売買を含む不確実な方法、契約形態を取る合理的な理由は、当時の被告人には全くなかったのであり、従業員株式を含む株式譲渡を全く考慮に入れていなかったのである。

右の点からすれば、被告人の主張のほうが極めて合理的であり、ヨドバシカメラに対するものと同じものを、同じ希望金額でさくらやに売りたいという売主としての心理に合致するものである。

(四) さくらやの羽倉秀秋社長の供述について

(1) 羽倉社長は、三菱銀行新宿支店長から、被告人が「ヨドバシカメラに新宿西口メガネの株を売る交渉をしたが、ヨドバシカメラのせいで上手く行かなかったので、今度は、さくらやに売りたいと思っている。被告人は、新宿西口メガネの株は八万株で二〇億円で売りたいと言っている」旨の話を受けたと供述し(甲一一号証羽倉秀秋検面調書第三項)、更に、昭和六三年一一月一五日に三菱銀行新宿支店で被告人に会った際、被告人から「新宿西口メガネの株八万株は全株まとめてさくらやに渡すことができる。一部従業員株があるが、これは被告人がただでくれてやったものだから、被告人がどうでもできる株である。従業員以外の株の名義を分散しているが、これは被告人の自由にできる株なので、さくらやに全株渡すことができる。八万株の代金は二〇億円で、これ以上まけない」旨話されたと供述している(同検面調書第五項)。

(2) しかし、羽倉社長の右供述は、到底信用できるものではない。それは次の点から明らかである。

<1> さくらや以前の、被告人とヨドバシカメラとの交渉は、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡の交渉であって、新宿西口メガネの株式譲渡の交渉ではない。前述したように、ヨドバシカメラの藤沢社長の営業譲渡の仮契約後の第二回目の交渉が新宿西口メガネの株式譲渡に変更されたような供述は、仮契約からの一連の流れで、さくらやから新宿西口メガネの株式を取り戻す条件にて最終的に平成元年三月二九日付の株式譲渡契約となったことから生じた誤解であり、その誤解であることを詳細に論証した。

<2> 被告人は、三菱銀行新宿南口支店に対し、ヨドバシカメラとの交渉が破談になったことから、さくらやに対し、新宿西口メガネの賃借権・営業権を譲渡したい旨、その斡旋、仲介を依頼したのであり、新宿西口メガネの株式の全株式八万株の譲渡を申し入れたものではない。これについては、前述のように、これに反する飯柴正美の供述、証言は全く信用性がないことを詳細に論証した。

<3> 羽倉社長は、第一審第三回公判において、次のように証言している。

(問)「被告人は、ヨドバシカメラとの仮契約があるから、その仮契約の内容、条件と同様の条件でさくらやに売りたいという話をしていませんでしたか。」

(答)「そうです。それが売買契約二〇億円という根拠です。」

(問)「いくらで何を売るのかというのは初めに会ったとき、おおよそその線は話しましたか。」

(答)「二〇億円で新宿西口メガネの営業権をということでした。」

第一回目の売買交渉の際(昭和六三年一一月一五日)に、買主側が、売主側の条件、売買の対象物が何であるか、その代金はいくらであるのか、その根拠は何であるのかを聞くのは当然であり、被告人が最初の直接交渉時に話さない訳はないのである。

右証言は、さくらやの前の被告人とヨドバシカメラとの交渉が、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡についてであったこと、並びに、被告人が当初、さくらやに対しヨドバシカメラと同様に新宿西口メガネの賃借権・営業権を代金二〇億円での譲渡を申し入れたことを如実に証明するものである。ヨドバシカメラとの営業譲渡の仮契約の締結、それに基づく新宿西口メガネの賃借権・営業権譲渡の交渉の経過からすれば、被告人の主張に沿う前記羽倉社長の証言は、極めて自然である。

<4> 羽倉社長は、前記<3>の証言後、被告人は新宿西口メガネの営業権の譲渡ではなく、同社の株式を売りたいと申し入れた旨訂正している。しかし、これは、結果的にその後の基本合意書締結時に、新宿西口メガネの株式の譲渡契約に変更されたことから、それに気づいて訂正したものに他ならない。

前記<3>の証言は、第一審弁護人の誘導によるものではないことは明らかであり、被告人が当初希望していたさくらやに対する取引形態について、羽倉社長が記憶していたものを、そのまま表わしたものである。

<5> 昭和六三年一一月一五日の最初の交渉時において、被告人が、さくらやの羽倉社長に対し、新宿西口メガネの株式の譲渡の申し入れをし、更に「一部従業員株があるが、これは被告人がただでくれてやったものだから、被告人がどうでもできる株である」旨話したと供述した点は、当時の周辺事情及び事実に反し、全く考えられないことである。すなわち、従業員の株式については、当時の被告人にはどうにもならない事情があったのであり、そのことは、ヨドバシカメラの藤沢社長の前記供述からも明らかである(「長嶋の持っている株式は思うようにならない」甲二四号証検面調書第三項)。この従業員株式に関する限り、藤沢社長の認識していた事実と被告人の認識していた事実は符合するのであり、実際にも、長嶋ら従業員の株式をさくらやに譲渡させようとする被告人の説得は完全に失敗している。

(3) 前記<1>から<3>までの一連の経過、及び<4>、<5>の事情からすれば、羽倉社長の供述、証言には信用性がなく、被告人が当初さくらやに対し申し入れた取引は、ヨドバシカメラと同様に、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡であり、従業員株式一万〇四〇〇株を含めた新宿西口メガネの全株式八万株の譲渡ではないことは明らかである。

したがって、被告人には、さくらやへの取引申込みの当時において、新宿西口メガネの株式譲渡代金に対する所得税を脱税する意思も、計画性もなかったことは明らかである。

3、被告人が当初から新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を希望していたことを証明する客観的証拠について

(一) 新宿西口メガネの株主名簿の記載の変遷

(1) 新宿西口メガネの昭和六一年七月二二日の三〇〇〇万円の増資後の、株式名義人の構成・持株数は次のとおりであった。

長嶋正男 一万四四〇〇株

松本孝司 一万二〇〇〇株

村井勝喜 一万二〇〇〇株

諸星登 一万二〇〇〇株

江連ひろ子 一万一二〇〇株

吉田恭治 四八〇〇株

松野健二 四〇〇〇株

相馬富太吉 三二〇〇株

金原明廣 三二〇〇株

斎藤明 三二〇〇株

右のうち、村井勝喜、諸星登、江連ひろ子、吉田恭治、松野健二の各名義人は、借名名義であることに争いはないが(被告人が、右名義人らと被告人名義の株式については、トスが実質的に保有するものと主張しているのは従前のとおりである)、これらの借名名義については、新宿西口メガネの整理管理人の田邨弁護士が株式名義人の分散化の要請、同族会社と判定されないための手段として要請された結果である。

(2) その後、被告人は、トスの資金を使用してトスに株式を保有させるために従業員の持株の半分を買い入れたり、相馬富太吉が新宿西口メガネを退職するに当たり、同人の残り株式一六〇〇株を買い入れたため、被告人(トス)の支配株は六万六九〇〇株に及んだ。そして、昭和六三年六月二〇日に、被告人は、長嶋正男に対し、次のとおり株式名義人及び持株数を変更するように命じ、長嶋は、その旨の株主名簿を作成した(甲二一号証長嶋正男検面調書第四項、同添付資料1、2)。

刀川芳枝 四万六四〇〇株

松本孝司 一万二〇〇〇株

松本真砂代 一万一二〇〇株

長嶋正男 七二〇〇株

金原明廣 一六〇〇株

斎藤明 一六〇〇株

(3) 右の変更の時期が昭和六三年六月二〇日であることが非常に重要である。

すなわち、昭和六三年四月頃より、トスは取引先の相次ぐ倒産によって資金繰りに窮し、倒産の危機に瀕していたのであり、被告人は、倒産回避のための資金を入手すべく、ヨドバシカメラとの昭和六二年六月二九日付営業譲渡仮契約に基づく新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡の交渉を開始していた時期だったのである。もし仮に、被告人がヨドバシカメラに対し、新宿西口メガネの株式を譲渡しよう交渉し、更に、株式譲渡代金にかかる所得税を免れる目的をもっていたとすれば、右の六月二〇日における株式名義人・持株数の変更は、極めて不可解、不自然と言わざるを得ない。被告人の支配株のうち、被告人及び刀川芳枝名義の持株(合計五万八四〇〇株)については、一五パーセント未満の株式譲渡は非課税とする制度を利用することができないのである。

そして、右株主構成・持株数は、ヨドバシカメラとの交渉が決裂されるまで維持され、かつ、さくらやに対する取引の申し入れに際しても、何ら変更されていないのである。

(4) 右のような株主名簿・持株数の記載状況からすれば、当時の被告人においては、ヨドバシカメラ、並びに、さくらやに対し新宿西口メガネの全株式八万株を譲渡したいと希望していたことはあり得ず、かつ、譲渡代金にかかる所得税を免れる目的があったとは到底考えられないのである。

昭和六三年六月二〇日の株主構成・持株数の変更は、被告人が従前に主張するとおり、トス倒産の事態に備え、他人名義の株式について、より安全な内妻、娘の名義に変更したことなのであり、被告人には、ヨドバシカメラ、さくらやに対し新宿西口メガネの株式を譲渡することは、念頭に全くなかったのである。

(5) 被告人の乙二号証の供述調書によると、被告人は、さくらやに対する新宿西口メガネの株式譲渡の申込み当初から、譲渡代金にかかる所得税を免れる目的を有し「所有名義を分散して一名義当たりの売却株数を減らして課税要件に満たない株数にしてしまえば、税金を一切納めなくてすむと考えた。そのようなことをすることが脱税になることは十分に分かっていた」旨供述しているが(乙二号証検面調書九項)、前述のように、被告人は、長嶋正男に命じて株主構成・持株数の変更ができたのであるから、もし、被告人が、ヨドバシカメラ及びさくらやに対し、新宿西口メガネの株式譲渡の取引を申し込んだとするならば、事前に株主名簿上の株主構成・持株数について、一名義当たりの株式数を減らして課税要件に満たない株数にするはずである。

「一名義当たりの株数を減らして課税要件に満たない」ようにするとの知識が当時の被告人にあったならば、逆に一名義当たりの株数を増やすような昭和六三年六月二〇日の株主構成・持株数の変更、これの株主名簿記載の行為、並びにヨドバシカメラ、さくらやの取引交渉まで右株主名簿の記載の維持することは、被告人の意思(脱税の犯意)と、その行動が全く乖離していることになる。株主名簿という客観的資料からは、さくらやへの取引申込み当時の被告人には、新宿西口メガネの株式の譲渡代金にかかる課税を免れる意思があったとは、到底考えることはできないのである。

(二) 三菱銀行に提出した新宿西口メガネの株主構成という書面について

(1) 被告人の乙二号証添付資料一〇の「新宿西口メガネの株主構成」と題する書面が、被告人の当初からの脱税の意思を証明する証拠として使われている。右書面について、被告人は「このように名義を分散したのは、株式売却益に対する課税を免れるため」と供述している。しかし、この書面が提出された時期は、昭和六三年一一月一五日の第一回目の取引交渉後から、同年一一月二二日の基本合意書締結までの間であり、被告人がさくらやに取引を申し込む前に作成していたものではない。

(2) 右書面の作成は、前記一一月一五日の第一回目の取引交渉に際して、被告人が新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を希望したことに対し、三菱銀行の担当者から、当該譲渡には株主総会の決議が必要として、新宿西口メガネの株主構成・持株数を明示してほしいと要請されて、被告人が、株主名簿を管理していた長嶋正男ではなく、急遽トスの松野健二に命じて作成させたものである(同書面の筆跡は松野健二)。また、同書面における従業員株式についての記載が全く事実と合致していないこと(長嶋正男‥六〇〇〇株(事実は七二〇〇株)、金原明広‥一二〇〇株(同一六〇〇株)、斎藤明‥一二〇〇株(同一六〇〇株))からして、右書面は、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡の承認決議には何ら問題がないことを示すために作成されたもので、さくらやに対する新宿西口メガネの株式譲渡を被告人が一切考えていなかったことを十分に推認させるものである。

(3) 更に重要なことは、前記一一月二二日の基本合意書には右書面が一切採用されず、譲渡の対象となる株式名義人・持株数について一切明記されていないことである。通常、企業買収の取引に際して株式譲渡の形態を採用する場合、対象となる株式の名義人、持株数を事前に把握し、契約書ないし合意書に一覧表などを添付して明記するはずである。その記載がないということは、被告人とさくらやとの基本合意書締結当時には、当事者双方は譲渡すべき株式の総数は分かっていても、その内訳は十分把握していないことになり、通常の企業買収の株式譲渡の基本合意書とは全く異にしていると言わざるを得ない。被告人が、当初から新宿西口メガネの株式譲渡を希望していたとすれば、譲渡すべき株式、名義人、その持株数を事前に準備のうえ、さくらや及び三菱銀行に対し示すはずであり、また、当然さくらや・三菱銀行側が事前にそれを求めるはずである。その結果、右株主構成の書面が提出されたのであれば、株式譲渡に関する基本合意書に右書面に基づく株主構成・持株数が明記されることになる。それがないことは、株式譲渡による企業買収には通常考えられないことであり、特別な事情があったとしか言えない。その特別な事情こそ、後に述べるように、一一月二二日に、突然さくらや・三菱銀行が、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡の形態から、同社の株式譲渡の形態に変更したこと、その際、同銀行の担当者が被告人に対し、株式名義人には譲渡の株主総会等の議事録が必要な法人を避け、個人の場合は印鑑証明書のすぐに取れる人との指導をしたことにほかならない。株式譲渡の取引だというのに、事前に対象となる株主構成・持株数が把握されていないのは、突然の契約形態の変更、並びに、譲渡しやすいように株主構成の変更の指導があったこととしか説明のしようがないのである。右株主構成の書面は、被告人が従前から主張するとおり、新宿西口メガネの株式譲渡用に作成されたものではないことを如実に証明するのである。

(4) したがって、「新宿西口メガネの株主構成」と題する書面は、被告人の脱税の意思を裏づける証拠ではなく、かえって、被告人が、さくらやに対しヨドバシカメラと同様に新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を希望していたことを裏づける客観的証拠となるのである。

4、本項におけるまとめ

被告人が、さくらやに対し、当初から新宿西口メガネの株式の譲渡を希望していた否かは、被告人の脱税の意思、計画性並びに悪質性を認定するうえにおいて、非常に重要な認定である。前記1、2、3で詳細に述べたとおり、被告人は、営業譲渡の仮契約のあるヨドバシカメラと新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡の交渉をし、それが破談となって、今度は、そのライバル会社であるさくらやに対し、ヨドバシカメラと同様に、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を希望したと認定するのが、証拠上、経験則上当然である。第一審判決及び控訴審判決のように、被告人がヨドバシカメラに対し新宿西口メガネの株式譲渡の交渉をしていたとして、当初からさくらやに対しても、新宿西口メガネの株式の譲渡を希望していたとする認定すると、どうしても無理、不自然が生じてくる。すなわち、第一に、被告人はヨドバシカメラにとって営業譲渡の仮契約より不利な契約を申し入れたことになり、第二に、企業買収・M&Aの専門部署が通常進めるべき事前の調査、資料蒐集を怠ったことになり、第三に、被告人が何の目的で新宿西口メガネの株主構成・持株数を変更し、一名義当たりの持株数を増やすような逆の行為をした説明が不可能となる。

以上のように、被告人において、当初から新宿西口メガネの株式の譲渡を希望していない、また、株式譲渡を念頭においていなかったのは、間違いのない事実であり、第一審、控訴審判決の右認定は、判決に影響を及ぼす重大な採証法則違反、経験則違反による事実誤認であり、かつ、これを維持することは著しく正義に反するものである。

三、被告人が希望していた賃借権・営業権の譲渡ではなく、本件株式の譲渡をする旨の株式譲渡契約に応じた理由

1、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡から株式譲渡への変更

(一) 前述したように、被告人は、さくらやに対し、ヨドバシカメラと同様に、新宿西口メガネの賃借権・営業権を代金二〇億円で譲渡する旨の取引を申し入れたのであり、当初から新宿西口メガネの株式譲渡は念頭になかった。これが、株式譲渡の契約形態に変更されたのは、さくらや側の一方的な都合によるものであり、しかも、被告人に対し事前連絡もなしに突然に申し入れられた契約形態だったのである。第一審、控訴審判決は、右のような事実や主張については一切考慮していないし、完全に無視しているが、これは、被告人が当初からさくらやに対し新宿西口メガネの株式の譲渡を申し入れたと認定しているところから、賃借権・営業権の譲渡から株式譲渡への契約形態の変更はあり得ないという帰結からである。しかし、被告人が当初から株式譲渡の取引を申し入れたとの認定自体が重大な採証法則違反、経験則違反による事実誤認であり、このことは前記のとおり詳細に論証したとおりである。

(二) さくらやが、被告人の希望する賃借権・営業権の譲渡を株式譲渡の契約形態に変更した理由は、新宿西口メガネの店舗賃借権の譲渡について、家主である協立商会の承諾が得られるかどうか不確実であったため、新宿西口メガネの全株式八万株の譲渡の契約形態に変更することにより、家主の賃借権譲渡承諾を回避することにあった。これ以外に賃借権・営業権の譲渡を株式譲渡に変更する理由は考えられない。

(三) 新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡から同社の株式譲渡の契約形態の変更が、被告人にとり非常に突然であったことは、次の点から明らかである。

<1> 昭和六三年一一月二二日付基本合意書の作成者は、三菱銀行情報開発部の飯柴正美であり、同人は、基本合意書を同年一一月一八日に、さくらやの羽倉社長に渡したこと。

<2> 飯柴は、右基本合意書の作成に当たり、被告人との間で打ち合わせした形跡は一切なく、基本合意書を羽倉社長と同様に、事前に被告人に提示した事実がないこと。

<3> 被告人とさくらやの羽倉社長が、事前に基本合意書の件につき会談をしたことは一切ないこと。

なお、前記<3>については、飯柴作成の甲一二号証添付資料一には、基本合意書を締結した一一月二二日の前日二一日に、被告人と羽倉社長が会談した結果、基本合意書を締結したような記載、並びにその旨の供述(同検面調書第八項)があるが、これは全くの虚偽である。右添付資料一の記載を子細に検討すれば、被告人と羽倉社長の会談には、会談場所、時刻、出席者も特定されておらず、情報開発部の担当者が何ら関与していないような形式になっている。しかし、企業買収、M&Aの専門部署を仲介した取引について、その専門部署の担当者を抜きにして、被告人と羽倉社長が一対一のトップ会談をすることはあり得ないのである。また、羽倉社長は全面的に三菱銀行に任せていたのであり(第一審第三回公判・羽倉証言一七丁)、同人には、三菱銀行の担当者抜きで、被告人と一対一で基本合意書を取り決めなければならない事情も、理由も全く存在していなかった。

(四) 基本合意書が被告人に提示されたのは、昭和六三年一一月二二日午後七時三〇分の三菱銀行新宿支店においてであるが、基本合意書の締結、それに伴う手付金の交付という取引においては、極めて異常な日時である。すなわち、翌日は勤労感謝の祝日で金融機関の休業日であり、その前日の午後七時三〇分からの取引では、売主は当日はもとより翌日も受け取った手付金等を銀行口座への入金処理ができないため、現金または小切手を手元で保管せざるを得ず、その保全に不安を覚えるからであり、このような日時を避けるのが当然となる。

右のように極めて異常な日時に、基本合意書の締結を図ったさくらや、三菱銀行側の意図するところは、第一に、さくらやは、ライバル会社に知られないうちに、新宿西口メガネを譲り受けることとし、契約の締結を急いでいたこと(甲一二号証飯柴第七項)、第二に、被告人が当然に契約形態の変更に難色を示すことを予想し、その説得に必要な時間を得ること(夜ならば被告人にそのほかの用件はないと予想される)、第三に、被告人が拒否してもライバル会社に連絡できる時間をできる限り無くすこと(被告人は当日の深夜または翌日の祝日に連絡を取ることになり、連絡が取れにくいことが予想される)である。異例な取引日時を指定する側には、何らかの目的、意図があるとするのは我々の経験則の教えるところであり、本件の場合、少なくとも右の三つの目的、意図がさくらや、三菱銀行側にあったと十分に推測されるのである。

さくらや、三菱銀行側が、賃借権・営業権から株式譲渡への契約形態の変更に、被告人が難色を示すことを予想していたのは、被告人がその前の一一月一五日に、ヨドバシカメラとの交渉が決裂した経緯を十分に説明していたからである。その説明により、さくらや及び三菱銀行は、ヨドバシカメラとの交渉決裂の原因が、ヨドバシカメラが代金二〇億円を値下げしたことであり(甲一二号証飯柴調書第四項)、被告人が譲渡代金を二〇億円から一銭もまけないという強い意思を有していることを知ったのである。したがって、さくらや及び三菱銀行側は、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡から同社の株式譲渡に契約形態を変更すると、当然に被告人(トス)側の手に入る資金は、従業員株式を除く金額となって、二〇億円に届かないことになり、二〇億円の受取りに固執する被告人が強い難色を示すことを予想し、更に場合によっては被告人がライバル会社に走ることを予想したのである。だからこそ、企業買収、M&A取引としては、極めて異常な日時を設定して、被告人を説得する十分な時間を得ること、また、最悪でも被告人がすぐにはライバル会社に走れないようにしたのである。右事情以外に、さくらや及び三菱銀行が、極めて異常な取引日時を設定した理由を合理的に説明できるものはない。

右事情からしても、三菱銀行の担当者が、事前に基本合意書を被告人に提示することはあり得ないし、またしてや、同担当者抜きで被告人と羽倉社長の一対一の交渉が前日にあったこともあり得ないのである。

2、被告人が新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡から、同社の株式譲渡への契約形態変更に応じた理由について

(一) 被告人は、昭和六三年一一月二二日の午後七時三〇分に、三菱銀行新宿支店において、同銀行情報開発部の担当者から、突然、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡から同社の株式譲渡への契約形態の変更を通告され、驚き、かつ異義を唱えたのである。これは当然のことである。すなわち、被告人の目的は、後に新宿西口メガネに対する譲渡益の課税があるとしても、当面二〇億円をそのまま取得することであり、これに対し株式譲渡では当然に従業員株式分が除かれて、最初から手に入る資金は減額されることになるからである。

(二) 被告人の当然とも言うべき難色に対し、三菱銀行の担当者の飯柴正美、木下晴夫は、次のように被告人を説得したのである。

(1) 新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡、同社の株式譲渡の両契約形態とも、新宿西口メガネの店舗の場所的価値の譲渡という実体は同じであるが、賃借権・営業権譲渡の場合、家主の協立商会の賃借権譲渡の承諾が取れないリスクがあり、株式譲渡の場合、右のようなリスクはない。

(2) 被告人が危惧する受取り金額の違いについては、「一五パーセント未満の株式譲渡は非課税になる」旨の現行税制を説明し、株式譲渡のほうが節税でき、実質的に両契約形態とも手取り額は変わらない。

(3) 中小企業の取引事例として「中小企業は、普通、家族や友人の名義株として分散されているので、被告人の場合も同じで問題はない、株式の売買のときに名義を分散したのであれば問題となるが、数年前から分散していれば問題にならない、取引の実例があって節税できた」と説明した。

(4) 非課税だから名義人には迷惑はかからず、トラブルは発生しない。

(5) 名義人には、株主総会等の議事録の必要な法人を避け、個人株主にすること、個人株主でも印鑑証明書をすぐに取れる人にすること

(三) ここに、被告人が本件株式譲渡につき、他人名義を使用した重大な契機がある。企業買収、M&Aの専門部署の銀行員の右説得に対し、被告人はその専門性を信頼したのである。まさか、飯柴ら担当者が被告人に脱税を勧める訳はないと考えるのは当然である。被告人の立場から言えば、新宿西口メガネの店舗の場所的価値の売却について、賃借権・営業権の譲渡形式による売買であろうが、株式譲渡形式による売買であろうが、実質的に手取り額が同じであれば、被告人が希望する契約形態に「どうしてもしたい」と拘泥する理由はなかった。ただ、被告人の当時の認識としては、賃借権・営業権の譲渡の場合は、新宿西口メガネの従業員もそのまま移ると考えていたが、株式譲渡の場合は、さくらやからの要請で、長嶋ら従業員にさくらやへの譲渡を説得しなければならず、説得できるかどうかのリスクを負担することになり、よりリスク、手数のかからない賃借権・営業権を選択したかった。しかし、被告人には、長嶋ら従業員に対するさくらやへの株式譲渡の説得という不安材料があるものの、当事者双方にメリットがある取引として飯柴らが勧めるものを積極的に拒否する理由はなかったのである。

(四) 第一審においては、飯柴や木下は、株式譲渡による節税効果を被告人に説明したことはないと証言しているが、その大部分は「覚えていない」という証言に終始するだけで、到底信用できるものではない。前述したように、被告人が当初から希望していた取引形態が、ヨドバシカメラと同様の新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡であったことは明白であり、それがどうして結果的に同社の株式譲渡の契約形態となったのかの説明については、被告人の第一審、控訴審における詳細な証言、陳述のほうが、現実にその説明を受けたものでないと表現できないものがあり、その信用力は大きなものがあると言わざるを得ない。

この点において、特に重要なことは、飯柴が昭和六三年当時の株式譲渡に関する税制を知っており、その面での専門家であり、被告人から説明を求められたら説明したかも知れない旨証言していることである(第一審第二回公判・飯柴証言一一丁)。当時の被告人に、株式譲渡に関する税制の知識がほとんどなかったことは、その以前に、同人の内妻の刀川芳枝に四万六四〇〇株、長女の松本真砂代に一万一二〇〇株を裏書譲渡している形式をとり、更にその旨の株主名簿作成していることから明らかである。税制の知識のない被告人においては、何らの示唆、指導なくして、賃借権・営業権の譲渡と株式譲渡とは企業買収、M&Aでは実体が同じであるとか、節税効果で実質的手取り額が同じになると考えるはずも、理解できるはずもないのである。

被告人が当初からヨドバシカメラと同様に、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を希望していた事実と、昭和六三年一一月二二日の午後七時三〇分からの交渉により株式譲渡の契約形態にした基本合意書を締結した事実、賃借権・営業権と株式譲渡とでは被告人(トス)が手に入れる資金額に差があるという事実が、いずれも明らかな場合、その契約形態の変更に至る重大な理由、事情があったとするのが我々の経験則である。その重大な理由、事情こそが、税制の知識や法律的知識のない被告人に対する飯柴らの前記のような説得があったということである。

(五) 飯柴正美の供述の信用性について

(1) 飯柴は被告人に対し、株式譲渡に関する税制を説明していない旨証言しているし、第一審判決も、被告人が当初からさくらやに対し新宿西口メガネの株式の譲渡を申し入れたと認定して、そもそも同社の賃借権・営業権の譲渡から株式譲渡への変更自体があり得ないという立場を取り、被告人の主張に歯牙もかけない。控訴審判決も同様である。しかし、被告人が、当初からヨドバシカメラと同様に、さくらやに対しても新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡を申し込んでいた事実は明らかであり、それに関連して、右飯柴証言及び供述は極めて疑わしいものと言わざるを得ない。

(2) 一般的に、銀行員の証言の信用性は高いと裁判所では判断している例が多いと思われる。それはなぜかと言えば、一般社会的に、銀行員はお固い職業であり、法令や商道徳に違反するような行為はしないと見られており、一流銀行ならば、なおさらそうであると判断されて、それが半ば常識化されているからと思われる。本件の場合の被告人も、右の一般社会的な常識を持つ一人だったのであり、三菱銀行という一流銀行の社員の言う言葉を信じる人間であった。ましてや、被告人は、三菱銀行新宿南口支店に対し、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡の仲介を依頼した認識を持っていたので、依頼者の立場から、なおさら信用する傾向が強かったと言わざるを得ない。しかし、本件の場合、企業買収、M&A事案の経験者ならば誰でも首をかしげるような極めて異常な取引日時を指定して、株式譲渡に関する基本合意書の締結、手付金の交付の取引をした事実が厳然とあり、本件に限って言えば、右のような一般社会通念、常識は全く通用しない。なぜ、さくらや・三菱銀行側が極めて異常な取引日時を指定したのか疑問を持てば、本件事案の真相を容易に解明できるのである。

(3) また、飯柴が認識した最初の新宿西口メガネの株主構成・持株数は、被告人の乙二号証検面調書添付資料一〇の「新宿西口メガネの株主構成」と題する書面である。その構成はジャパンフードサプライズという法人一社と、被告人を含む個人株主一二名の合計一三名であった。ところが、飯柴の供述、証言に従えば、昭和六三年一二月三日午前一〇時に新宿西口メガネへ出向し、「株主推移と真正なる株主を確定するために同社の取締役会議事録を調査」した結果、株主構成・持株数が大幅に変動していたことが判明したというのである。しかも、飯柴が認識していた「一五パーセント未満は非課税」という税制に従った持株数になっていたというのである。

飯柴の供述・証言の流れからすれば、被告人は、当初から新宿西口メガネの株式の譲渡を希望し、前記会社を含む一三名の株式の分散した株主構成を提出し、更に、昭和六三年一二月三日の議事録調査で「一五パーセント未満は非課税」という税制にぎりぎりに適用される株主構成・持株数に変更していたということになる。しかし、右飯柴の供述、証言は新宿西口メガネの株式譲渡に関する取締役会議事録の作成の経緯という客観的事実から、その信用性は根底から失われるのである。すなわち、昭和六三年一二月三日午前一〇時の飯柴の調査時点においては、新宿西口メガネの株式譲渡に関する取締役会議事録は存在していなかったのである(第一審弁第三六号証)。右弁第三六号証は麦島司法書士事務所の文書リストであるが、そのリストによると新宿西口メガネの取締役会議事録が作成されたのは、昭和六三年一二月三日一四時(午後二時)二三分なのであり、飯柴が同日の午前一〇時に新宿西口メガネに来ても調査対象たる取締役会議事録は、まだ存在していなかったのである。飯柴は存在していない取締役会議事録を調査して、株式の移動状況、真正なる株主を確定したということになる。これは次に述べるように、飯柴は、自分が新宿西口メガネの株式譲渡に関する取締役会議事録の作成に重大に関与したことを隠蔽するために、あたかも取締役会議事録を調査したかのように供述しているのである。

四、取締役会議事録作成にかかる三菱銀行担当者の重大な関与について

(一) 飯柴による新宿西口メガネの株式譲渡に関する取締役会議事録作成の経緯については、控訴趣意書一六五~一七五頁に述べたとおりである。

「株主推移と真正なる株主を確定するために、同社の取締役会議事録を調査」することにした飯柴らの担当者の動機は、被告人が以前に提出した「株主構成」の書面の記載と担保に供した株券の裏書記載からして、新宿西口メガネの株式の移動状況がよく分からないことが一目瞭然であったからである。また更に、一一月二二日の飯柴ら担当者による名義人を誰にするかという指導が、被告人にはよく理解できていないこと、被告人では株式譲渡の非課税要件を満たす作業ができないと認識したからにほかならない。すなわち、飯柴ら担当者は、被告人が法人一社を含む一三名の「株主構成」の書面を三菱銀行に提出していながら、その一方で、刀川芳枝、松本真砂代に大部分の株式を裏書譲渡し、非課税要件に逆行する行為をしていたことを認識し、被告人には非課税要件を満たす作業を速やかにできる能力はないと理解したのである。そのため、飯柴ら担当者は、被告人とさくらやとの株式譲渡契約が実現できないとの危惧感をもったのである。前述したように、飯柴は被告人に対し、新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡と同社の株式譲渡は実体的に同じであり、株式譲渡による節税効果によって両契約形態とも手取り額は同じであると説得したことから、不慣れな被告人が作業に手間取るため他の専門家に依頼すると、飯柴らの説得による節税効果が実現できないと判明するおそれが十分にあり、当然、被告人は話が違うとして、さくらやとの株式譲渡に関する基本合意書を破棄してくる可能性があったのである。この時点で節税効果の無いことが判明すれば、勿論、被告人は、株式譲渡ではなく、当初から希望していた賃借権・営業権の譲渡を主張したはずである。

(二) さくらやの羽倉社長、三菱銀行の飯柴ら担当者が、その供述、証言するように、被告人が従業員株式を除く大部分の新宿西口メガネの株式を保有していることを認識し、かつ、被告人に対し株式譲渡の節税効果などの説明、契約形態の変更の説得をしていないとするならば、被告人が、その所有株式について、どのような株主構成を取ろうとも、形式的な譲渡手続の書類さえ整っていれば良く、真正な株主は被告人と長嶋ら従業員しかいないという認識の元では「株主推移と真正なる株主を確定するため」の調査など一切必要はない。すなわち、買主のさくらや側では、新宿西口メガネの株式を取得するためには、大部分の株式については真の所有者である被告人の意思に基づいての株式の譲渡、株券の交付があればよく、従業員株式については被告人がさくらやに売るよう同意を取りつけてくれば良いのであり、被告人が所有株式をどのような名義に分散しようと、その形式的な譲渡手続の書類さえ整っていれば何ら問題はなく、敢えて売主の被告人側の名義分散などの事情を調査して手を突っ込むのは、かえって問題を生じさせることになるのである。

必要性のない「株主推移と真正なる株主を確定するため」の調査を敢えてするのは、作業能力のない被告人に任すと、被告人が他の専門家に依頼し、その時点で節税効果が無いことが判明してしまう可能性が強く、新宿西口メガネの株式譲渡が実現しないおそれがあったからにほかならないのである。

三菱銀行の情報開発部の担当者らに与えられた使命は、前述したように、さくらやに対する本件株式譲渡の実現、及びその早期完了である。そのためには、不慣れな被告人に非課税要件の調整を任せるわけにはいかなかったのである。飯柴は「一五パーセント未満の株式譲渡は非課税となる」と、被告人に対し説明・説得した以上、その話の整合性を保ち、被告人が節税効果に疑念を抱かぬよう株式の移動を調整し、各株主の保有する株式が一五パーセント(一万二〇〇〇株)未満になるように調整し、取締役会議事録を作成したのである。

飯柴は、弁三六号証からも明らかのように、株式の移動を表わした右取締役会議事録の実質的な作成者なのである。

五、被告人の「脱税の故意」についてのまとめ

(一) 被告人が新宿西口メガネの賃借権・営業権の譲渡から、同社の株式譲渡の契約形態の変更に応じた理由は、前述したとおり、節税効果で賃借権・営業権の譲渡と実質的に同じであるなどと三菱銀行担当者から説明、説得された結果である。被告人は、飯柴ら担当者の言葉を信じて疑わなかったのである。しかも、飯柴が新宿西口メガネに来社して、株主構成・持株数の調整、移動など懇切丁寧に株式譲渡に関する議事録作成の指導してくれたことから、一流銀行員が脱税指南を積極的にする訳はないという常識を持つ被告人は、ますます右説明、説得が真実のものであると判断してしまったのである。すなわち、被告人は、他人名義を使用しさえすればそれで節税効果が生じ、実体的な譲渡代金の流れなど全く関係がないものと認識してしまったのである。本件の場合の実体的な譲渡代金の流れに何ら工作が施されていないことは、右の経過でしか説明できないのである。

(二) 第一審及び控訴審判決は、被告人が、当初から、さくらやに対する新宿西口メガネの株式譲渡につき他人名義で行う意思があったとして、その故意、計画性を認定しているが、当然計画されるべき譲渡代金の隠匿工作がないことに関しては、一切言及していないし、何らの疑問も提示していない。また、弁護人の右主張に対しても何ら応答していない。

第一審及び控訴審判決は、簡単に言えば、被告人が「株式譲渡を他人名義で行い」「税務申告の必要時期に右譲渡所得を申告しなかった」という構成で、被告人の脱税の故意、計画性、並びに悪質性を認定しているのである。株式譲渡に関する脱税事犯の場合は、「株式譲渡を他人名義で行い『あたかも名義人が譲渡代金を受け取ったように工作してその譲渡所得を隠し』、税務申告の必要時期に右譲渡所得を申告しなかった」という認定になるはずであり、ここに本件事案の特殊性が浮き彫りにされてくるのである。本件事案において『あたかも名義人が譲渡代金を受け取ったように工作してその譲渡所得を隠し』た行為がないのは、前述したように「節税になる」との三菱銀行担当者らが説明・説得をし、しかも非課税要件に適用するように取締役会議事録を作成してくれた結果、被告人が他人名義の使用だけで節税効果が生じると完全に信じ切ったからにほからないのである。脱税事案に伴う常套手段がないことに対する疑問を抱けば、右主張は十分に事実関係に符合し、飯柴による不自然な株主推移の調査の目的が十分に説明できるのである。

以上のように、被告人には脱税の故意はなかったものと言わざるを得ない。被告人には、本件脱税の意思も、計画性も一切なかったのであり、右のとおり、異例の脱税事犯であることの認識さえしない第一審及び控訴審判決の認定は、重大な採証法則違反、経験則違反による事実誤認したものであり、これを維持することは正義に反し、破棄を免れないものである。

第三、新宿西口メガネの株式の帰属主体について

一、新宿西口メガネの株式の帰属主体についての第一審及び控訴審判決の認定の基礎について

(一) 控訴審判決及び第一審判決は、いずれも、新宿西口メガネの株式の帰属主体は被告人であると認定している。第一審判決を踏襲する控訴審におけるその論拠とするところを要約すると、

<1> 被告人は、昭和五七年七月二二日頃、新宿西口メガネの代表取締役であった河村洋治から、当時の同社の全株式である二万株式会社を買い受けたこと。

<2> 同社の二万株の三〇パーセントに当たる六〇〇〇株につき、長嶋ら従業員に無償譲渡し、その余の一万四〇〇〇株を被告人が自己名義及び借名名義で保有していたこと。

<3> 昭和六一年七月二二日の増資の際、株式払込金三〇〇〇万円は、被告人が長嶋ら従業員四名分についても立替払する方法により一括して支払ったこと。

<4> 長嶋ら四名は、昭和六一年一一月二五日頃、被告人の要請によりその保有する株式の各半分を被告人に譲渡したこと。その際に作成された株券売渡書にも買受人が被告人であると記載されていること

<5> 被告人は、さくらやに対し、そのメインバンクの三菱銀行を通じて、新宿西口メガネの株式を譲渡したい旨の申込みをし、同銀行情報開発部の仲介により、さくらやと交渉した結果、昭和六三年一一月二二日、全株式八万株を同年一二月二一日までに代金二〇億円で譲渡し、従業員株式については、被告人が責任をもって三名の従業員からの譲渡の同意を取り付ける旨の基本合意書を締結したこと。

<6> さくらやは、前記同日、手付金として額面二億五〇〇〇万円の小切手を被告人に交付するとともに、二億五〇〇〇万円を被告人名義の普通預金口座に振り込んだこと。

<7> さくらやとの間で取り交した基本合意書、株式譲渡契約書、合意書等のいずれにおいても、被告人が株式の譲渡人と表示され、被告人が署名押印していること。

<8> さくらやの代表者、同社のアドバイザーとして仲介した三菱銀行の担当者らは、被告人が本件株式の保有者であると被告人から聞かされており、トスが実質上の保有者であって何らかの事情で被告人が契約当事者となっているようなことは一切聞知していなかったこと。

<9> さくらやは、被告人の要請により、昭和六三年一一月二八日、被告人との間で合意書を取り交した上、翌二九日に追加手付金として五億円を被告人名義の普通預金口座に振り込んだこと。

<10> 被告人とさくらやは、従業員株式についての譲渡の同意が得られないまま、昭和六三年一二月二一日に、八万株のうち従業員株式一万四〇〇株を除く六万九六〇〇株を譲渡する旨の株式譲渡契約書を取り交し、被告人は株券を交付し、さくらやは七億四〇〇〇万円を被告人名義の普通預金口座に振り込んだこと。

として、これに反する被告人の供述は、不合理な点が多く、客観的な裏付けを欠くばかりか、被告人自身、捜査段階及び第一審第一回公判で事実を認める供述をしていることから到底信用できないと、これを排斥している。

(二) 実際に、控訴審判決の指摘するとおり前記した被告人とさくらやとの間における本件株式譲渡に関する基本合意書、株式譲渡契約書、合意書等の文書が存在することは明らかである。

しかし、前記<5>の認定は、重大な事実誤認であることは、前記第二で詳細に述べたとおりであり、被告人が当初新宿西口メガネの何を譲渡したいと希望し、さくらやに取引の申込みをしたのかという事実は、被告人の脱税の故意、計画性、並びに悪質性の認定を大きく左右するもので、この事実の重大な誤認は許されないものである。

また、右認定は、第一に、被告人が河村前社長から二万株を譲り受けた際の新宿西口メガネの株式の経済的価値、被告人が企図していた新宿西口メガネの再建策、その実行を無視するものであり、第二に、新宿西口メガネの増資目的、トス名義による新宿西口メガネの増資の株式払込の事実を完全に無視するものであり、第三に、実質課税を原則とする課税制度において、本件株式の譲渡代金の実質的受益者がトスであるこを無視するものであり、判決に影響を及ぼす重大な事実誤認と言わざるを得ない。

二、被告人が新宿西口メガネの株式二万株を譲り受けた当時の本件株式の経済的価値、並びに被告人の企図した新宿西口メガネの再建策について

1、新宿西口メガネの株式の経済的価値について

(一) 被告人が、昭和五七年七月二二日に全株式二万株を取得した新宿西口メガネは、膨大な赤字を抱えた商法上の整理会社であり、当時の同社の株式は無価値に等しかった。被告人は、昭和五五年一一月頃に、新宿西口メガネの河村洋治社長より、同社再建の要請を受け、これに協力してきたのであるが、整理中の同社長の不祥事から、被告人は整理管理人弁護士(当時は整理監督員)及び申立代理人弁護士の強い要請により、新宿西口メガネの全株式を取得することになったのである。被告人が新宿西口メガネの全株式を取得したとしても、同社は整理監督員の監督下にあり経営的影響を与えることは困難な状態であったこと、また、新宿西口メガネは膨大な赤字を抱えた整理会社で株式は無価値に等しかったことにより、この時期における同社の全株式の取得に被告人が消極的であったことは当然であった。

(二) 新宿西口メガネの株式の価値を高めるには、同社の再建、整理の終結の一点しかない状態であった。しかし、被告人が協力者なしで一人で新宿西口メガネを再建することは不可能であり、被告人は再建の協力者を求めて努力していたのである。そのために必要ならば、被告人は、新宿西口メガネの株式の一部を協力者に保有させることに何ら抵抗を持たず、自分が全部保有する意思は一切なかったのである。被告人は、新宿西口メガネの再建に協力させて、その果実を協力者に与えず、被告人が一人占めするのはできないと考えていたし、実際にも再建の手段において有効な方法ではない。

被告人は、右のように当初新宿西口メガネの株式は無価値であり、再建には第三者の協力が絶対に必要という考え方を有していたため、新宿西口メガネの再建に必要な手段として、第三者ないし被告人と協力者が共同して設立する会社に同社の株式を保有させることを考えていたのである。当時の新宿西口メガネの再建については、被告人だけの力では実現できないことは明らかであって、これは、被告人の当時の考え方を裏づけるものである。したがって、被告人には、自分に関する同社の株式の帰属については、それほど固執する考え方は一切なかったのである。

2、新宿西口メガネの再建策について

(一) 被告人は、再建の協力者を得て、昭和五七年一二月に、同社を支配運営していく会社として株式会社泰共(以下「泰共」という)を設立し、新宿西口メガネの株式全部を泰共に譲渡したのである。被告人が泰共に新宿西口メガネの株式全部を譲渡した理由は、前述したとおり、第一に、新宿西口メガネの再建には第三者の協力が絶対に必要であったこと、第二に、被告人と協力者により新宿西口メガネの再建を目指す会社を設立し、当該会社に同社の株式全部を保有させる被告人の考えがあったことである。

泰共の事実上の倒産後、被告人は、泰共に代わる新宿西口メガネの親会社となるべき株式会社トス(英文表示で「TOSS」)を設立し、同社が泰共の負債を肩代りすると引き替えに、新宿西口メガネの二万株式会社の株式を譲り受けたのである。

(二) 控訴審判決及び第一審判決いずれも、右被告人の主張には、客観的な裏付けがないとして排斥している。実際に、被告人から泰共へ、並びに泰共からトスへの新宿西口メガネの株式譲渡に関する契約書ないし合意者等は存在していない。

しかし、これは当時の状況からして、被告人には全くやむ得ない事情が存在したのである。被告人が新宿西口メガネの全株式を取得した際には、田邨管理人から被告人は、右株式名義の分散、同族所有の禁止を強く求められていたため、形式的に名義の分散、非同族所有の株主名簿を作成せざるを得ず、同社の全株式を一会社(泰共、トス)に譲渡したことを明確にできなかったのである。被告人が泰共やトスに株式を譲渡した旨の承認を求めても、右事情から田邨管理人に拒否されるのは明らかで、譲渡承認を求めることさえできる状況ではなかったのである。

泰共が新宿西口メガネの親会社すなわち支配会社として活動していたこと、また、トスがその泰共の地位を継承して同社の親会社として括動していたことは、いずれも新宿西口メガネの店舗のあったビル内に事務所を置き、新宿西口メガネの店舗改装工事の実行、商品等の買入れ、資金調達などにおいて、債権者等の関係者において広く認識されていたのである。右のように株式保有の形式と実質の違いは、新宿西口メガネが整理会社であった特殊性から起因するものであり、被告人から泰共へ、泰共からトスへとする株式譲渡に関する契約書等の証拠がないことをもって「譲渡はない」と認定するのは、いささか乱暴といわざるを得ない。

また、トスという商号は「トータル・オーガナイズ・サービス・システム」の略称(英文頭文字TOSS)であり、被告人及び創立者の一人である中村公明らの当時の構想としては、会社の各事業の担当者を定め、将来的には、その事業を子会社組織として、トスが子会社を管理運営をしていくというもので、「トータル・オーガナイズ・サービス・システム」という名称には、その意味が込められているのである。実際にも、トスの子会社として新宿西口メガネを傘下においていたのである。仮に、被告人が新宿西口メガネの全株式を自己の保有する株式として認識し、会社に同株式を保有させる意思はないとした場合、トス(TOSS)という商号自体は全く無意味であると同時に、後に詳述するトス名義で新宿西口メガネの株式増資資金を払い込むことも全く理解できない不可解な行為となってしまうのである。

三、トス名義による新宿西口メガネの株式払込金三〇〇〇万円について

1、新宿西口メガネの増資について

(一) 昭和六一年七月二一日の新宿西口メガネの増資の株式払込金三〇〇〇万円がトスの名義でなされたことは証拠上明らかである。それも被告人が、わざわざ個人名義の四〇〇〇万円の定期預金を取り崩して、一旦トスの銀行口座に入金して、増資資金をトス名義で出していることも証拠上明らかである。もし、仮に、被告人が新宿西口メガネの全株式を自己の保有する株式と認識し、長嶋ら従業員に分け与える株式分を除く増資分の株式を自己が保有する意思であったとしたら、右のような端的に被告人名義の定期預金から直接できるものを、わざわざトスの口座に移し替えてトス名義の増資株式払込手続をしたことは、全く不可解なものと言わざるを得ない。第一審判決は、右の増資株式払込手続については「トスに何らかの資金需要があったに過ぎない」旨の認定をしているが、これは何らの説明をしていないことに等しい。本件事案を素直な目で見れば、後に述べるように、さくらやに対する新宿西口メガネの株式譲渡の「真の受益者」はトスであることから、当時の被告人にはトスに新宿西口メガネの増資株式を実質的に保有させる意思があったと認定しなければならないはずである。また、新宿西口メガネの増資目的が何であったかという点においても、第一審、控訴審は何ら理解していないことから、右増資株式払込手続の意味を理解できないのである。

(二) 新宿西口メガネの増資の目的

(1) 新宿西口メガネの増資の目的は、第一に、新宿西口メガネの整理完了を早めるために、整理債権の返済資金をトスが同社に貸し付けることではなく、トスが資金を出しての四倍増資を二回行い、それを整理債権の返済資金にあて整理を完了させるというものであり、第二に、新宿西口メガネが、トスの傘下にある会社であることを内外に示すことであった。

右計画の背景は、トスの企業としての急成長があり、被告人は、トスが稼ぎ出す資金をもって新宿西口メガネの整理の早期終結を企図したのである。トスは、業務の主力を昭和五九年八月より電子機器の開発、設計及び製造販売に移行しはじめ、総合商社である高島株式会社などと業務提携、資本提携をし、急速に業績を伸ばしていたのである。

右のように、業績を拡大していくトスとしては、新宿西口メガネの株主としての地位を明らかにして、関連企業をグループ化して更なる拡大を求めることは、企業の経営方針として当然であり、また、傘下の企業が商法上の整理会社であるとするのは、グループの信用性に影響するので、新宿西口メガネの整理の終結を急いだのである。

(2) 企業の再建については、各種の方法があるが、最も有力で効果のある方法は、資金提供者であるスポンサー企業に対する第三者割当増資による資金調達である。すなわち、増資資金は、借入金とは異なり金利が付かす、再建企業としては非常に負担の軽い資金だからである。新宿西口メガネの増資は、同社にとり最も有力で効果のある再建方法だったのであり、被告人が考えたのは当然であった。その背景にあったのが、前述したとおりトスの企業としての急成長であり、更に、トスの設立の目的・経緯からして、増資資金提供者はトス以外にないのである。したがって、当時の被告人において、新宿西口メガネの増資株式をトスに保有させようとしていたことは否定できない事実なのである。

(3) しかし、トスによる二回にわたる新宿西口メガネの増資計画は、不幸にして、田邨管理人からトスに対する第三者割当増資はできないと拒否されたのである。被告人は田邨管理人から、増資をするのであれば、従来の分散された株式名義人のみに対して行うこと、並びに、長嶋正男ら従業員に三〇パーセントの株式を保有させることと命じられたのである。トスが新宿西口メガネの親会社であると田邨管理人を含め債権者などの関係者に広く認識されているのに、トスに対する第三者割当増資を認めないという田邨管理人の決定に対して、被告人は非常に不満であった。しかし、経営者である田邨管理人に対し直接的に抵抗できないため、増資資金については分散された株式名義人の如何をとわず、トス名義で振り込むことで、新宿西口メガネの増資される株式は、実質的にトスが保有するもので、かつ、新宿西口メガネがトスの支配下にある会社であることを、トスのメインの取引銀行である協和銀行赤坂支店に示すことにしたのである。

これが、被告人が、トス名義で増資株式の払込手続をした理由であり、これ以外の理由は考えられないのである。

2、第一審判決の増資資金三〇〇〇万円についての認定に対する批判

(一) トスの「公表経理」と経理処理の実態とその特異性

(1) 本件株式の帰属について、弁護人は、第一審及び控訴審において、被告人が新宿西口メガネの河村前社長から譲り受けた二万株は泰共へ譲渡され、さらにトスへ譲渡された旨の主張を展開しているものである。そして、新宿西口メガネの三〇〇〇万円の増資による株式が誰に帰属するかは、被告人が無罪であるか、有罪であるかの判断の基準となるもので、極めて重要な事項である。

第一審判決の本件株式の帰属主体の認定の基本的態度は、トスの「公表経理」すなわち、トスの会計帳簿、振替伝票、決算書、税務申告書の記載に対し全面的信用力を認め、これのみに重点を置いていることであり、控訴審判決もこれをそのまま踏襲している。しかし、トスの経理は、一般の会社と比較して極めて特異なものであり、その外形だけをとらえて重要視することは、実体を完全に見誤ることになる。すなわち、トスの「公表経理」は、トスの経理処理上の特異性である「松本扱い」という特別の勘定科目を入れなければ正確に把握できない構造となっており、これを抜きにしてトスの「公表経理」は解析できないのである。

(2) トスの経理処理の特異性は、控訴趣意書三二~三七頁に詳細に論じているので繰り返しを避けるが、簡単に言えば、経理事務の簡便化を目的として、トスの経理処理の中に被告人の名に基づく「松本扱い」という特別な勘定科目があることであり、その「松本扱い」勘定は、被告人とトスの間の純粋の貸借関係ではなく、トスと相手先の間にフィルターないし経理ブロックのように入り、トスの資金循環を補完する勘定科目となっていたのである。また、トスの会社資金による被告人個人名義の預金を作り、これを被告人個人名義のまま、会社の資金として使用していたことである。

本件のさくらやからの株式譲渡代金が、トスの管理・保管する被告人名義の銀行預金から引き出され、「松本扱い」の借入金で処理される場合には、右で述べたように、「松本扱い」勘定が、トスと被告人個人との純粋の貸借関係ではないことから、株式代金は、トスの資金とみなさるシステムになっているのである。

したがって、第一審、控訴審判決のように、トスの「公表経理」の外形に重きを置き、実際の経理処理の実態を無視するのは正当な方法ではなく、これがために、重大な事実誤認をしているのである。

(二) 本件株式払込金は、被告人の計算において支出されたと推測することができるとの認定の誤り

(1) 新宿西口メガネの三〇〇〇万円の増資株式払込金が何を原資としているかは、本件事犯においては非常に重要である。真実の出資者が、株主名義の形式にかかわらず株式を実質的に保有することが一般社会的に広く存在するからである。第一審判決は、『三〇〇〇万円の株式払込金の原資となったのは、被告人名義の定期預金である』とし、『振替伝票(甲第三七号証)及びトスの総勘定元帳によれば、右定期預金は、被告人に対する貸付金に計上されているから、右株式払込金は、被告人の計算において支出されたと推認できる』旨認定している。これに対する批判は、控訴趣意書三八~四〇頁で論じているが、それに付加して次のとおり主張を展開する。

(2) 株式払込資金の実際の金銭的流れについては「トスから被告人に四〇〇〇万円が渡り、被告人が右四〇〇〇万円をトスの銀行口座に入金のうえ、トスが小切手で株式払込金三〇〇〇万円が出金(トス→被告人→トス)」している事実は明らかである以上、株式払込金の原資はトスの銀行取引口座上の金員と認定するのが当然である。第一審判決は、被告人名義の定期預金四〇〇〇万円が、もともとトスの資金であった事実及び証拠を無視して、株式払込金三〇〇〇万円の原資を右金銭的流れの中間にある「被告人の定期預金」と認定しているのである。

株式払込金の原資となる金員が前記したように「トス→被告人→トス」という流れになっている以上、株式払込金は最終的な出金者であるトスの出金と見なされるはずであり、それが自然、経験則である。それに反して、外形的にはトスであるが、実際には被告人が出金したと認定するには明確な根拠が必要である。しかし、第一審判決の示す根拠たるものは、当時の被告人において『トスに対して資金調達をしなければならない事情が認められるから、被告人とトスとの間の出入金の事実は、トスに何らかの資金需要があったためと考えることができる』としているだけである。被告人が株式払込金を自己名義でしなかったのは、たまたまトスに「何らかの資金需要があった」ので右定期預金を一旦トスの口座に入れたため、再度トスの口座から引き出さずに直接株式払込をしたからというのである。しかし、これは何ら明確な根拠とはなり得ない。第一審判決の指摘する「トスに何らかの資金需要があった」ことが重要なのであり、その資金需要こそ三〇〇〇万円の増資株式払込金にほからないのである。第一審弁一二号証の当座預金取引明細表を見れば、昭和六一年(一九八六年)七月二一日の利息分を含む四〇〇一万三八〇五円の入金は、明らかに番号「三七五九〇」の小切手三〇〇〇万円を捻出するためであり、当該小切手が株式払込金に使用されているのである。

(2) 被告人名義の右定期預金四〇〇〇万円は、トスが、協和銀行赤坂支店(現あさひ銀行)から、個人預金獲得競争の協力を求められて、トスの資金を被告人個人名義の預金にしたものであり、その実質は、トスの被告人に対する貸付金ではなく、トスが被告人名義に保有する預金だったのである。

第一審判決は、『右定期預金は、トスの昭和六二年一月期の法人税確定申告書控写にトスの資産として計上されていないから、トスの協力預金とも、トスの資産とも見ることができない旨』認定しているが、右定期預金は、昭和六一年五月三一日に預け入れられ、同年七月二一日に解約されたもので、トスの期中に解約されたものであるから、決算期に存在していないのであり、翌六二年一月期の法人税確定申告書に計上されていないのは当然であり、右定期預金をトスの資産ではないとする論拠にはなり得ない。

右定期預金に関する被告人に対するトスの経理処理上の貸付金は、昭和六一年五月三一日になされ、即日定期預金が組まれたものであり、被告人とトス間の右貸付行為は、単に被告人が定期預金を組むことだけを目的とするものになっている。しかし、さしたる目的のない右貸付行為は、トスにとっては資金の固定化を招き、被告人個人にとっては自己使用の目的はなく、かつ、金利の発生が生じる不経済な取引となってしまい、純粋な貸借関係と見ることはできないのである。それを敢えて行うのは、トスが銀行の個人預金獲得の協力要請に応じたというしかないのである。前述したように、これはトスの経理処理の特異性によるものであり、取引銀行との関係からトスの会社資金による被告人個人名義の預金を作り、これを被告人個人名義のまま会社の資金として使用していたのである(弁三二号証、弁三三号証のトスの決算報告書「預貯金等の内訳書」参照)。

以上のように、株式払込金に使用された金員の実際的な流れが「トス→被告人→トス」となっていることを自然に合理的に判断すれば、何も全く不可解な「トスに何らかの資金需要があった」ことを理由づけにして、流れの中間に位置する被告人の定期預金が株式払込金の原資であったとする認定には決してならないのである。第一審、控訴審判決は「初め有罪ありき」という立場で、被告人に有利な証拠を牽強付会的な理由で排斥しているとしか考えられないのである。

したがって、第一審判決は、被告人に有利な証拠を排斥する何ら合理的な理由、根拠を示さずして、トスが出金した外形的事実と異なった「被告人が株式払込金を出金した」ことを認定し、控訴審判決もこれを踏襲するものであり、右認定は重大な採証法則違反、経験則違反による事実誤認と言わざるを得えず、これを維持することは正義に反するものである。

(三) 株式払込金三〇〇〇万円は被告人への仮払金として計上された上で、貸付金に振り替えられているとの認定について

(1) 第一審判決は、『関係各証拠によれば、昭和六一年七月二一日の三〇〇〇万円の株式払込金は、被告人への仮払金として計上された上、トスの当該事業年度の期末である昭和六二年一月三一日に、右仮払金は被告人に対する貸付金に振り替えられていることが認められるとして、株式払込金は、被告人がトスから借り受けて支出したもの』と認定し、控訴審判決もこれを踏襲している。しかし、第一審判決が認定する「三〇〇〇万円の株式払込金が被告人への仮払金へ計上された」とする証拠はどこにも存在しないし、関係各証拠のどこを見ても、三〇〇〇万円の株式払込金が被告人への仮払金として計上された事実はないのである。これに対する批判は、控訴趣意書四〇~四六頁まで詳細に論じているが、被告人を有罪にするか、無罪にするかを決める非常に重大な事項なので、再度論じるものとする。

(2) 第一審判決が右認定の基礎としているのは、昭和六一年七月二一日付の振替伝票(甲四一)であるが、右伝票には、金額三〇〇〇万円について、最初に、借方科目欄に「借地権」と記載され、摘要欄に「昭和リース」と記載されていたところ、次に、それらを全部線を引いて抹消し、借方科目欄の上部に「仮払金」と記載し、摘要欄に「丸山借地権付建物内金」と記載されたことがわかる。そして、その次に、借方科目の「仮払金」及び摘要欄の「丸山借地権付建物内金」の記載が、線を引いたり、また、線をばつ状に引いて、その全部を抹消したことがわかる。最後に、右記載文字とは明らかに異なる筆記具と筆跡で、借方科目欄に「貸付」と書き、摘要欄に「松本」と記載されていることが明らかになっている。

第一審の弁護人は、明らかに筆記具と筆跡の異なる、右借方科目欄の「貸付」及び摘要欄の「松本」が、何者かによって後日改ざんしたと主張しているのであり、第一審判決が指摘する「矢印を引いて『61・7・21』『松本』という書き込み」、すなわち、矢印の先に記載されている「61・7・21」「松本」の箇所について、改ざんされたものと主張しているのではない。矢印の元にある「貸付」「松本」が改ざんされたと主張しているのであり、第一審判決が誤った箇所を指摘して論じているのは明らかであり、この点は審理不尽となるし、控訴審も何ら応答していない点も審理不尽の違法と言わざるを得ない。

すなわち、被告人の有罪・無罪かの判断をするについて、最も重要な証拠の一つと認められる右振替伝票の文字「貸付・松本」が、何者かによって改ざんされた疑いがあり、その経過が検察官の立証によって明らかにされていない以上、これを証拠として、トスが被告人に三〇〇〇万円を貸し付けたと認めることは許されるものではない。なお、この点についての事情として、第一審弁護人が検察庁、国税局に出向き、右振替伝票を調査した経緯を詳細に述べているので、是非ご検討頂きたい(第一審弁論要旨五五~五六頁)。

また、後に述べるように、増資払込日と同一日に、トスは保有していた西新宿の土地を売却し、そのために、土地上の借地権を買い上げるに必要な資金を出資している事実があり、右振替伝票は、その取引を表象するものなのである。その振替伝票の記載が、いつの間にか実際の取引とは異なる「貸付・松本」と改ざんされているのである。

(3) 弁一二号証の当座預金明細表の昭和六一年(一九八六年)七月二一日出金の二口の三〇〇〇万円のうち、小切手番号「三七五九〇」によって出金された三〇〇〇万円が、新宿西口メガネの増資の株式払込金として支出されたことは証拠上明らかである。また、甲四一号証の振替伝票が直接右株式払込金の出金関係を表象する振替伝票ではないことも明らかである。右振替伝票がどのような理由で株式払込金の出金関係を表象する伝票と見なしたのか第一審判決は明らかにしていないし、控訴審判決も同様である。第一審判決は、単に右振替伝票の最終記載が「貸付・松本」となっていることから、株式払込金が仮払金、そして被告人への貸付金となったと推測しているに過ぎない。しかも、弁護人が明らかに他の筆跡、筆記道具と異なる「貸付・松本」の最終記載こそが何者かによって改ざんされたと主張しているものを、その主張に何ら答えないで、右推測・認定の根拠としているのである。

右振替伝票が総勘定元帳に転記される当時に、その記載内容が線で抹消される前の「仮払金・丸山借地権付建物内金」であったことは、甲四二号証の「仮払金」勘定欄で「61・7・21」に「丸山」とコンピューターに入力されていることから明らかである。すなわち、総勘定元帳転記のためのコンピューター入力などの、経理処理を依頼された会計事務所は、期中の動きを示す振替伝票の内容を、そのまま転記・コンピューター入力するのは当然だからである。もし、総勘定元帳への転記の際に、勝手に書き換えるようなことをしてしまえば、一つの勘定の変更は、他のすべての勘定科目に連動し、全体的な会計処理は大混乱になってしまうからである。結局、前記振替伝票、総勘定元帳から推認される事実は、「仮払金・丸山借地権付建物内金」という仮払金が、トスの昭和六二年一月期の決算期において、被告人への貸付金に振り替えられたという外形的事実があったというに過ぎず、右の「仮払金・丸山借地権付建物」が実際には「株式払込金三〇〇〇万円」であったという証拠、立証なくして、株式払込金三〇〇〇万円をトスが被告人に貸し付けたものと認定することは到底できないのである。

(4) 第一審判決が何故に「仮払金・丸山」の三〇〇〇万円を増資株式払込金と読み替えて解釈するのか、「関係各証拠によれば」というだけでその理由を具体的に明らかにしていない。総勘定元帳への転記時期には明らかに「仮払金・丸山」となっていたのであり、前記したように「貸付・松本」と改ざんされた結果だけをもって認定したとしか考えられないのである。しかし、第一審弁三二号証のトス税務申告書「土地の譲渡等に係る譲渡利益金額に対する税額の計算に関する明細書」には、「西新宿七-一一九」所在の九三・七九平方メートルの土地が昭和六一年七月二一日、すなわち新宿西口メガネの増資株式払込期日と同じ日に、売却されたことが記載されているのであり、「丸山借地権付建物内金」三〇〇〇万円がこれに関連する出金であったことは明らかである。甲四一の振替伝票は、右土地売却の事実から、売却に必要な当該土地上あった丸山所有の借地権付建物をトスが購入して、土地と一緒に売却処分したことを示すものであり、新宿西口メガネの増資払込金とは全く別個のものであることが容易に判明するのである。

したがって、別個の取引実体のある振替伝票を何らの証拠もなく、株式払込金が被告人の仮払金として計上されて貸付金に振り替えられたとする認定の証拠とするのは、重大な採証法則、経験則違反であり、かつ正義に反するものであり、第一審判決、控訴審判決は破棄を免れるものではない。

3、本項のまとめ

以上のように、泰共、トスの設立目的、新宿西口メガネの増資目的、被告人がわざわざトス名義で増資株式の払込手続をした理由、並びに株式払込金三〇〇〇万円は実質的にはトスの資金であること、同三〇〇〇万円はトスと被告人との間で貸借関係にはなっていないことが明らかであることから、新宿西口メガネの株式六万九六〇〇株はトスが保有するものである。したがって、被告人に本件株式にかかる譲渡所得税が課せられる理由は全くなく、直ちに無罪が言い渡されるべきである。

四、本件株式譲渡の実質的な受益者について

1、本件株式譲渡代金の使途について

(一) 被告人は、従前より本件株式の譲渡代金一七億円余りのすべてがトスに入金されていることを詳細に主張している。このことは、被告人が、本件株式をトスが保有していると認識していたことから当然の帰結である。しかし、第一審判決は、『被告人名義の普通預金口座に入金された本件株式売却代金の使途状況をみると、その多くは、トスの預金口座に入金され、あるいはトスの借入金の返済に充てられるなど、トスの資金繰りのために費消されており、本件株式譲渡の受益者は実質的にトスであるようにも見える』としておきながら、『しかし、トスへの右代金の入金は、被告人からの長期借入金あるいは短期借入金として経理処理されており、このことは、本件株式譲渡が、やはり被告人の収支計算の下に行われたことを推認させるに十分な事実である』として、本件株式代金が、トスに入金されているとしても、それは、被告人のトスに対する長期借入金、短期借入金として経理処理されていることから、本件株式譲渡は、被告人の収支計算で行われた旨認定して、被告人・弁護人の主張を簡単に排斥しているし、控訴審判決も第一審判決を踏襲している。

税制の実質課税の原則からすれば、真の受益者の認定は極めて重要な事柄である。本件株式の譲渡代金一七億四〇〇〇万円は、トスの資金繰りに費消され、被告人は何らの利得を得ていない実体は、第一審判決の認めるとおり「受益者は実質的にトスであるように見える」のである。しかし、第一審判決はトスの「公表経理」の外形に全面的信用力を置き「被告人からの長期借入金、短期借入金として経理処理されて」いるから、本件株式譲渡は被告人の収支計算のもとで行われ、本件株式被告人に帰属するものと認定するのである。右のように「受益者」の観点からすれば、本件株式譲渡は、その実質と形式の乖離が歴然となるのに対し、第一審判決は、実質に重きを置かず形式を重視しているのである。

(二) しかしながら、第一審判決が重視するトスの「公表経理」には、極めて特殊な「松本扱い」という勘定科目があり、これなくしては、トスの経理処理実態を把握できないのである。このことについては前述したとおりであり、「松本扱い」という勘定科目は、トスと複数の相手先の間にある一種の経理ブロック、フィルター的な役割を担うトスの資金循環システムなのである。したがって、「松本扱い」勘定の被告人とトスとの借入、貸付の勘定は、純粋な貸借関係を表わすものではないのであり、決算時において、修正され、売上金や債権回収金、または、複数の相手先からの借入金などに振り替えられるのである。

その一例として、本件株式譲渡代金が入金された時の、昭和六三年度の期末である平成元年一月三一日における被告人からの短期借入金として処理された金一〇億二二七七万七一〇二円(甲五七号証、弁二一号証の同年度の決算報告書の貸借対照表の負債の部)について、十分にご検討頂きたい。

その詳細については第一審弁論要旨八四~八六ページのとおりであるが、再度論述するに

トスの被告人からの短期借入金一〇億二二七七万七一〇二円のうち、

<1> トスが「松本扱い」のフィルターをはずして、直接の借入先分とした金二億二一三四万一二六三円が、

三和銀行・新宿新都心支店 四五、六一六、四九七円

太陽神戸・新宿新都心支店 八〇、三五一、七一六円

三和銀行・新宿新都心支店 九五、三七三、〇五〇円

合計 二二一、三四一、二六三円

に修正され、振り替えられていることが明らかである(第一審弁二一号証の「貸借対照表」、「借入金及び支払利子の内訳書」)。

<2> トスが「松本扱い」で入金した金八億四七〇五万二三三六円は、トスにとって自己が実質的に保有する株式ゆえに返済の必要性のない本件株式譲渡代金の七億一四二九万二四三六円(第一審弁五四号証-貸付金明細書)その他のものであるので、相手科目を「半製品勘定」として処理され、結果「松本扱い」の短期借入金は0となったのである(同弁二一号証の「借入金及び支払利子の内訳書」)

この経理処理が何を意味するのかは明らかである。すなわち、本件株式譲渡代金の一部七億円余りを含む一〇億二〇〇〇万円余りのトスの被告人からの短期借入金は、真の借入先の銀行に振り替えられ、かつ、真の株式保有者の所得として完全に消滅してしまったのである。これがトスの経理処理に「松本扱い」という特別な勘定があった実態を如実に証明するものなのである。

右の経理処理上の形式では、本件株式譲渡代金は、「松本扱い」勘定の短期借入金の減額で処理され、トスの売上金(「半製品勘定」の売上)として計上して処理されたのである(第一審第一一回公判・田端証言九丁)。勿論「半製品勘定」は経理処理上の便宜的な勘定科目であり、そのもの自体の実体乃至経済的価値はないのであるが、本件の場合の「半製品勘定」の実質は「本件株式」であり、右トスの売上とは正に「本件株式」の売上なのである。

また、「松本扱い」で長期借入金で経理処理された本件株式代金も、同様な方法にて、被告人に返済の必要性のないものとして、トスにおいて修正、経理処理されているのである(同第一一回公判・田端証言一〇丁)。

第一審判決の指摘するとおり、本件株式の譲渡代金は、トスの被告人からの短期借入金、長期借入金として入金処理されているが、それは名ばかりで実体は右のとおり借入金としての実質を有しておらず、トスの売上金として昭和六三年度、平成元年度の二期にわたって処理されているのである。第一審判決が右のように真の受益者がトスであることは明らかであるのに対し、トスの形式的な経理処理の外形のみを重視しその実質を無視するのは、採証法則の重大な違反があり、判決に影響する重大な事実誤認と言わざるを得ない。

2、被告人名義のユーロ借入金(インパクローン)の返済について

(一) 本件株式譲渡代金のうち、五億五二六一万二五〇〇円が、協和銀行赤坂支店の被告人名義のユーロ借入金(以下「インパクローン」という)の返済に充てられているのは事実であり、その被告人名義のインパクローンは、トスが、被告人名義で融資を受けていたものである。しかし、第一審判決は、『協和銀行側は、明らかに被告人個人の信用等を調査したうえで、被告人個人を相手として融資を実行しているとして、右インパクローンの返済は被告人の計算において行われたことは明らかである』と認定して、トスが右インパクローンの実質的借主ではないとしている。しかし、第一審判決の右認定は、明らかに重大な事実誤認である。その点については控訴趣意書九二から一〇〇頁にわたり詳細に論じているので、これを援用し以下簡単に述べる。

(二) 右インパクローンは、甲三六号証「貸出稟議書」の記載のとおり、被告人において新宿西口メガネの二四万株の四倍増資を行い、アクアウェストなる米国法人を介してヨドバシカメラに新宿西口メガネの営業譲渡をするという取引についての増資資金、株式買取資金のためのローンということになっているが、被告人が計画していた第二回目の新宿西口メガネの増資は、田邨管理人の反対で不可能となっていた状況があり、右資金需要は、トスの資金を借りるための方便だったのである。この点は、甲三六号証の「貸出稟議書」を子細に検討すれば容易に判明するのである。

また、被告人に対するインパクローンの実体は、トスが実質的に保有している新宿西口メガネの株式が担保となっていたのである。実際にも、インパクローンの融資金は、被告人名義の預金口座に入金されたものの、トスへ金二億二七八三万八六七八円が入金され(弁五二、五三号証)、被告人名義の定期預金一億二〇〇〇万円の合計金三億四七八三万八六七八円が、トスの資金として使用されているのである。右インパクローンの使用実態から見れば、これはトスの資金需要に基づく融資であり、その担保もトスが実質的に保有する新宿西口メガネの株式にほかならず、インパクローンの実質的な借主はトスなのである。

第一審判決は、被告人名義のインパクローンの借入という形式のみにとらわれ過ぎているものであり、その融資の実態(受益者は誰かなど)を検討すれば、右インパクローンの借入は、実質的にはトスに対して行われたと判断されるべきである。

3、本項のまとめ

(一) 事実関係を素直に見れば、本件株式譲渡代金によって、被告人は何らの利得を得ていないのであり、これに対し、トスは何らの見返りなしに一七億四〇〇〇万円の金員をすべて取得して、その資金繰りに、そして実質的にトスが借り入れた前記インパクローンの返済に費消しているのである。本件株式譲渡の「真の受益者」はトスであることは正に明白なのであり、本件株式はトスに帰属するものである。

なお、トスが何らの見返りなしに本件株式譲渡代金を取得したことに関し、第一審判決は、『トスが被告人の個人会社であるからこそ、その倒産を避けるため被告人が個人の資金を注ぎ込むことは、十分にあり得ること、というよりむしろ当然の行動であった』と認定している。しかし、控訴趣意書一〇一~一〇四頁に論じているとおり、被告人のトスに対する短期貸付金は一切債権として残らず、跡形もなく消えてしまったのであり、また、長期貸付金も順次トスの売上金として消えてしまうような貸付金の回収手段、権利が全く存在しないのは、貸借関係としては正に異常状態である。本件の場合を、一般的な代表者と会社との貸借関係と見るのは全く間違いであり、右異常状態を合理的に説明できるのは、被告人は本件株式を実質的にトスが所有しているものと認識していたという事実しかないのである。

(二) トスが、本件株式譲渡の「真の受益者」であることは、被告人の認識の中では、次のとおり首尾一貫しているのである。

<1> 新宿西口メガネの二万株の譲り受け。

<2> 泰共の設立と被告人の所有の二万株の泰共への譲渡

<3> 泰共の負債肩代りのために、二万株のトスへの譲渡

<4> トスの企業としての成長と新宿西口メガネの増資計画

<5> 「トスの資金」による新宿西口メガネの増資

<6> 「トスの資金」による長嶋外三名の新宿西口メガネの株式の買取

<7> トスの倒産の危機により内妻、長女への株券の裏書譲渡

<8> 本件株式代金すべてがトスに入金され、使用されたこと

右のうち、<5>、<6>については、第一審判決及び控訴審判決は、トスの「公表経理」上、被告人がトスから借入をして行ったものと認定し、弁護人らは、右認定が外形的側面のみを重視し、その実質を全く軽視している重大な事実誤認があるものと強く争っているものであるが、いずれにしても、「トスの資金」そのものが使用されたことに間違いはないのである。すなわち、本件株式増資及び買取の資金面の実体、並びに本件株式譲渡代金の費消面の実体から見れば、いずれも同一主体のトスなのである。本件株式につき資金を出した者が自己のためにその譲渡代金を費消したという実質がある以上、その者が「真の受益者」であり、本件株式の帰属者なのである。

第四、被告人の供述調書の信用性・証拠力の評価に対する誤り

一、控訴審判決は、その理由中において(七頁)、被告人の検察官に対する供述を全面的に信用できる旨の判断を示している。

その理由中には、検察官調書に対する絶大な信用性付与の姿勢が伺えるが、このような判断は、盲目的な検察官調書への追従と言うべく、判断機関たる裁判所が独自に有すべき権限を自ら放棄するに等しいものがあると言わなければならない。

裁判においては、自白調書が存在する例は枚挙に暇がない。しかしながら、自白調書は、その作成過程において、各事件ごとに様々な違いがある。被疑者が自ら、しかも任意で述べたものをほぼそのとおり正確に録取したものがあれば、他方では、被疑者が述べたことを捜査官がことごとく否定し、弁解を聞き入れぬままに、理屈を全面に出しつつ強要の上録取したという外形を備えたものもある。そうした形態は実に様々なものがあり、裁判所は、被告人の自白調書の成立の経緯及びその内容について、その背景事情、被告人の性格、置かれた状況、調書の形態、それまでの捜査の進捗状況との関係等々、いくつもの要素を併せ考えた上で、その信用性並びに証拠力を判断しなければならない。

控訴審判決・第一審判決は、いずれも被告人の供述調書に全面的な信用性を認め、被告人が裁判官の面前で申し立てている主張を一蹴した。しかしながら、右に述べたように、本件では、被告人の自白調書がどのような経緯で作成されたのかに十分な検討が施されなければならない。そのためには、被告人が、本件についてどのような思考をしていたのか、その思考に至った理由、どような説明を捜査官にしたのか、捜査官はどのような対処をしたのか、どのような経緯で調書が作成されたのか、被告人の主張はどのような点において調書に反映されているのか等が吟味されなければならない。

二、被告人の昭和六三年一一月から平成四年三月頃までの間の認識について

被告人作成の陳述書(平成八年一二月一一日付)において詳細に述べられているように、被告人は、本件に関して、自己に所得税法違反の嫌疑がかかるということを、昭和六三年一一月の株式売却時から平成三年の査察を受けた時まで、まったく考えていなかった。被告人は、西口メガネ株式売却の契約を締結し、その直後から平成二年七月まで、株式の名義書換等をめぐり民事事件を起こされ、裁判手続を続けてきたが、その間を通じて、よもや自分に五億円もの税金が課せられるとは、思いもよらなかったというのが被告人の偽らざる心情であった。

平成三年九月、被告人に対し国税局の査察が入ったが、この査察は被告人にとって寝耳に水で、被告人は、何かの間違いではないかとすら思ったほどである。しかしながら、被告人は、何故所得税法違反の嫌疑がかけられたのかについて、その際、実は正確な認識ができず、いかなる理屈により所得税法違反になるのかということすら理解することが出来ない状況にあった。被告人は、担当官に事情を聞いたものの、担当官は、単に「分かっているだろう」「西口メガネの株式売却の件だ」「知らないはずがないだろう」と述べるだけであったので、被告人は、賃借権譲渡の契約を、株式譲渡契約の形式を採用しつつ締結したとの理解をしていたことから、それが所得税法の何らかの条文に引っかかるのかと考えたに過ぎないものがあった。

被告人は、国税局に、平成三年九月以降翌四年三月まで、都合七回程の呼出に応じ赴いたが、取調べにあたっては担当官から一方的な質問がなされ、担当官主導による調べがどんどん進められた。株式譲渡契約締結の経緯、契約書作成の経緯、売却代金の受け取り、売却代金の使用先等々に関する調べが中心であったが、被告人は、何故に所得税法違反になるのかがなかなか理解できなかったのが実情である。被告人は、西口メガネをさくらやに売った際、その方式として本来『賃借権・営業譲渡の契約』をしなければならないところ、これを採用せずに、三菱銀行の主導の下に『株式譲渡の契約』をしたことから、それが咎められている、本来許されていないのにもかかわらずしてしまったことが咎められているのだと理解したわけである。この理解は、不幸にもその後もずっと続き、被告人は、国税局とも、検察官とも、はたまた原審の弁護人とも何か論点が狂っているという感を抱きながら時を過ごさなければならなかった。

被告人が、所得税法違反の容疑を明確に理解できた、すなわち、自己が所有するとされる西口メガネの株式の譲渡契約を締結し売却代金を受領したことにより、譲渡人に発生すると解される所得について申告をしなかったことから、その行為が脱税に該当するのであるという容疑をかけられていることを明確に理解したのは、実は、本件の裁判が始まってからのことであり、時期的には平成六年六月を過ぎた頃であった。なぜこのような事態に陥ったのかは、陳述書にその経緯が明らかであるが、およそ次のとおりである。

すなわち、被告人は当時、西口メガネの株式について、他人名義にしてあるものの、トスの資産と考えていたので、国税局の取調べ担当官に対し、トスが所有するものであることを主張していた。しかしながら、取調べ担当官は、譲渡契約が被告人の名前で行われていること等から、すべて被告人が株主という前提で調べをなし、「誰が株主であるかは問題にはならない」という対応を一貫して被告人にしていた。そこで、被告人は、株式の帰属が誰であるかは実は問題点ではないのだと理解せざるを得ず、従って、その事実について、あまり強く主張することがなかったわけである。そして更に言えば、被告人自身、所得税法違反の理由について、営業権・賃借権の譲渡をしないで株式譲渡契約を締結したことに法的にまずい点があったと理解していたことから、国税局の担当官との間で、十分にかみ合う議論にはなっていなかったことが指摘できる。

そして、その後に続く検察官の取調べは、国税局の取調べを前提になされるものであることから、国税局と全く同様の対応でなされ、被告人の供述調書は、自己にかかる所得税法違反の嫌疑を必ずしも十分に認識した上で作成されたものではないのである。被告人は、裁判手続になってから、法的問題点を十分に理解するようになったが、取り調べの中途では、何とも情けない程、自己にかかる嫌疑の法的意味合いを理解していなかったことが指摘できる。このような背景事情があったこと、並びに、検察官が被告人に対し、後述のような自白調書に署名押印するよう様々な説得を行い、または被告人の調書記載の要求をはねつけた事情を加味した上で、被告人の犯意にかかる正確な評価がなされるべきである。

三、被告人が控訴審及び第一審において主張したことは、決して弁解のための弁解ではない。被告人は、国税局の取調官や検察官から、「税法は形式論であり、契約書にも領収書にも全部被告人の個人名が書かれているので、所得税法違反を判断するについては、結局その形式が重要視され、被告人が何を考えていたかなどは重要な問題ではない」という対応を再三に亙りされてきた(被告人の前掲陳述書一〇五頁以下)。そして更には、その都度、「税法は形式論なので、お前は自分名義の契約書や領収書を覆すことができなければ有罪にならざるを得ない、実体がどうのこうのは問題ではない」という対応がなされてきたが、そうした事実が被告人の供述調書作成に重大な影響を与えたことは想像に難くなく、調書の証拠力を評価する上で慎重に吟味・分析されなければならない重大な事情である。

四、検察官作成の供述調書の信用性・証拠力について

被告人の検察官に対する供述調書は、被告人の言い分・主張を敢えて削除した形式で作成された調書であり、保釈を望む被告人の心理を巧みに逆用の上、自白部分が作成された調書である。

被告人の供述調書の信用力を判断するためには、とりわけ、以下に述べる要素を吟味した上で判断がなされなければならない。

1、被告人は、担当検察官に、どのようなことを言われた結果、供述調書に署名押印をしたのか

被告人は、前掲陳述書から明らかなように、検察官の取調べ時においても、被告人にかかる嫌疑について、大いなる誤解をしていた。被告人は、検察官に対し、概要、

『株式はトスが所有するものだが、トスが賃借権をさくらやに譲渡することと株式譲渡をすることは、契約書類を作った三菱銀行の担当者から実体・実質は同じだと言われている。どうして問題なのか』

という質問をしたり、自分の立場・認識を何度も説明したが、検察官は、国税局担当官と同様、概要、『そんなことは問題ではない、お前が契約したことについて説明をせよ、契約書等の記載と違うことを立証しない限り形式で判断する、客観的な事実関係を聞いて、その後にお前の言い分を聞く』

という姿勢で一貫して対応した。

検察官との間でも、国税局担当官とのやりとりと同様、相当程度ちぐはぐなやり取りがなされたが、被告人は、西口メガネの株式はトスが所有するという認識でいたので、この点だけは主張した。しかし、検察官からはその点は問題ではないという対応がなされ、これを受けた被告人は、自分の主張することが論点ではないと理解し、トスが所有するものであるという株式の帰属については簡単に触れただけであった。自分の主張が、問題ではないと一蹴されれば、これをそのまま受容しつつ別の対応をせざるを得ないことは、我々の日常生活においても多く見られることである。被告人の心情は、正に右のようなものであった。控訴審判決は、被告人の供述調書に被告人が裁判の場で述べている主張について記載が一切ないことをもって、法廷の場における被告人の主張を一蹴するが、被疑者段階でなした懸命な主張が一切調書に反映されないことが多々あることは、多くの刑事事件の示すところである

2、ところで、被告人は、平成五年一二月、第一審での弁護人であった伊藤弁護士と川平弁護士に、本件について相談をするようになった。しかし、同弁護人らとは、年末で忙しいとの事情から相談することができず、翌平成六年一月一二日の午後に面談の機会を設定したが、その後一三日から一週間程度の海外出張の予定があることを正直に検察官に報告したところ、被告人は、検察官から、聴取をしたいので一月一二日の午前九時三〇分に検察庁に出頭するよう言われ、その言葉に従い出頭し、その場でいきなり逮捕されたものである。

3、被告人は、検察官に対し、自分名義の調書に署名押印するか否かについて、勾留満期の一月三一日に至るまで抵抗する態度を示した。他方、被告人は、本件で何が問題になっているのか正確に理解できず、調書が検察官ペースで作成されていることについて焦りを感じていたので、弁護人に対応の仕方について意見を求めたいという考えを持っていた。しかしながら、原審弁護人は、忙しい弁護士で、重大な刑事事件(三浦事件関係、茨城県知事の贈収賄関係)を受任しているなどの事情から、被告人との接見の時間は、ものの五分から一〇分位で打ち切りになるというのが実情で、被告人は、自己の主張をどのようにすべきか、自己の主張と内容の異なる調書に対しどのように対応すべきか、とうとう分からないまま勾留満期の一月三一日を迎えるに至った。被告人は、前日の一月三〇日までに弁護人が接見に来るという約束をしていたものの、弁護人が接見に訪れなかったので、三一日早朝(午前七時三〇分)に伊藤弁護士に電報を打った。電報を打ったのは、それまで署名押印を留保していた五~六通の調書に検察官の要求どおり署名押印をすべきか否かの判断を聞きたいと思ったからである。控訴審において提出した弁第三号証の電報は、その際被告人が拘置所から伊藤弁護士に出したものであり、その文面には、「最後の調書、見解聞きたし、判断つかない」との記載があり、対応について問い合わせる文言が記載されている。この記載からは、供述調書への署名押印を逡巡している被告人の叫びが明らかに見られるのである。

4、検察官は、一月三一日に至るまで、被告人に調書への署名押印を求めた。そして署名押印しないことによるマイナスを何度も説明した。検察官の説得は左のようなものであった(前掲陳述書一二三頁以下)。

「売買代金が個人的に使用されていないことは分かった。トスにほとんどが入金され、トスの関係で支払いがなされていることも分かった。自分で使用するとか、隠すようなことをしていないことも分かった。三菱銀行の飯柴の言うことを真に受けたことも分かっている。脱税の意思がなかったことは九五%までは理解できる。総合すると情状はいい。そういったことは十分理解している。しかし、税法は形式主義だ。脱税事件は特捜が入った時点で九九%有罪なので、あなたも運が悪いわな。もしこの事件を仮に争うとなると、五~六年の長期勾留になる可能性がある。そうなれば、家庭は勿論崩壊する。経済的には再起不能である。起訴された後にも保釈にはならない。保釈にならなければ仕事もできないし、家族をはじめ回りのすべての人に迷惑をかけることになる。経済人としては命を絶たれることになろう。そんなことでいのか。よく考えてみろ。それよりもこの中で認めて調書に押印して、事実を認めて保釈になった方が、よほど経済人として利口だ。運が良ければ刑期も一年から一年半くらいになるし、情状が良ければ初犯だから執行猶予もつく。情状が良いということは屁理屈をこねないで、調書で認めて裁判官の心証を良くすることだ。一切認めて対応することが心証が良いということだ。検察官を離れて一個人の立場で考えてもべストなチョイスだ。ガタガタしない方がいい。あなたの為を思って言っているんだ。どっちがいいか考えてみろ」

という内容である。こうした言葉を検察官が吐くことは、現在「人質司法」なる言葉として厳しく指摘されている刑事裁判における実体の一面を如実に示すものがあるが、被告人は、いざそうした言葉を聞き、パニック状態に陥り、どう対処してよいか分からなくなり、伊藤弁護士・川平弁護士の意見をどうしても聞きたいと思い、弁第三号証の電報を打ったわけである。しかしながら、両弁護人は接見に訪れなかった。一月三一日の夕刻、被告人は、検察官の説明することを信じて、保釈を認めてもらい、一日も早く社会の中で経済人として活動することの重要性を信じ、目の前の五~六通の調書に一気に署名押印した。すなわち、「保釈になりたいなら認めよ」、「認めないのであれば保釈はしない」という両天秤にかけられ、前者を選択したわけである。第一審の弁護人は、弁論要旨の中で、この接見に訪れなかったことを悲嘆するように述べているが、現在の刑事裁判の下において自白調書を裁判所が無批判に受け入れる傾向があることを考えれば、被告人がこれら調書に署名押印した事実は重大な契機であったと言わなければならない。

控訴審判決は、こうした被告人の主張に対し、「不合理かつ不可解な行動であって、右供述を信用することはできない」という定型文句をもって一刀両断の下に一蹴しているが、そこには、被告人の供述調書が作成された経緯について慎重に分析し、吟味するという裁判の基本的な姿勢を忘れたものがあるばかりか、そもそも、そのような姿勢が事実認定の場において必要であるという哲学すら忘れ去られてしまっている実態があると考えざるを得ない。控訴審判決は、第一審判決と並び、被告人の供述調書に対する皮相的な洞察しか加えることのできなかった大きな誤りがあり、余りにも取り調べの実態、被疑者の精神状態に対する理解に乏しい判断であると言わざるを得ない。

5、また、検察官は、「法律の不知は罰する」という格言について被告人に何度も説明した。何故このような話が検察官からなされたのかは、被告人が本件事犯について、犯意を否定して検察官に自己の故意なき認識を主張していたからである(控訴審判決は、そのようなことすら気付かない)。被告人からこのような話がなされない状況の下で「法律の才知は罰する」との格言について検察官から突如として話がなされるはずはない。また、法律を学んだことのない被告人が、そうした法律上の重要問題を含む格言について、それまで何らの知識がなかったであろうことは、法律を扱う我々法曹三者にとって容易に理解できるものがある。

被告人は、自分に所得税法違反の犯意がまったくなかったことを検察官にむしろ積極的に主張したのである。しかし、検察官は、概要、「結果的に脱税になったという言い方は分かる。しかし、本件では契約書も領収書もその他の書類も、全部被告人の名前が入っている。そして被告人の預金口座に株式売却代金が入っている。こうした形式的な論拠でもって考えるのが脱税の事案である。だから、君がいくらトスが所有者であると言ったところで、それは被告人にならざるを得ない。また、賃借権譲渡と株式譲渡は実体が同じだという気持ちは分かるが、それは理解が間違っているのであって、結果的に脱税になっているのであれば、それは脱税に他ならない。要するに、君が所得税法という法律を知らなくても、それは通用しない。株式がトスに帰属するのか被告人に帰属するのかは問題ではなく、税法はすべて形式で判断するので、たとえ君が株式の帰属がトスと思っていたところで、また三菱銀行がそう説明したからといって、それは問題にならない。法律の不知は罰するのだ」

と説明し、被告人の知らない刑法第三八条を引用の上、さらには新聞記事を引用の上説明を施した。この詳細については、被告人の陳述書一二一頁以下に明らかである。このような詳細な陳述は、真に経験した者以外になし得ないことは、言うまでもない。控訴審判決は、被告人が何故に「法律の不知は罰する」という格言を知るに至ったのか、その経緯を更に吟味すべきであった。

6、検察官は、取調べの時はメモを取り、次の取調べの時にワープロで打たれた調書を拘置所に持参した。そしてそれを読み、署名押印するように求め、被告人の面前で入力したり、印刷したりすることはなかった。従って、被告人の訂正・追加文の挿入の申し立てに対し、面前ですらこれに応じることはなかった。そして、被告人が何度も求めた『結果的に脱税になったものであり、脱税の考えは一切なかった』という一文は、とうとう最後まで記載されることはなかった。検察官は被告人の求めに対し、その点は書かない方が心証がいいとか、その点は触れない方がいいとか、その点は本件では問題になっていないとかの理由で、訂正をしなかったが、被告人の調書に訂正がなく、しかも一貫して起訴事実を認めている内容になっているのは、以上のような理由があったからである。

控訴審判決、第一審判決は、いずれも、被告人の調書に、犯意等を否定する主張がないことを指摘し、被告人の法廷における主張を排斥しているが、そうした評価は、取調べの実体を理解していない、あるいは理解を示そうとしない稚拙な考え方であり、弁護人は誠に残念でならない。

以上、被告人の供述調書には、これを全面的に信用できるだけの背景事情がなく、安易に有罪のための証拠にしてはならない不自然な点が散見されるものがあるが、控訴審判決並びに第一審判決は、そうした点に気付かず、または敢えて目をつむりその信用性を認めたものであり、そこには、経験則違反・採証法則違反があり、結果重大な事実誤認の結論を導き出してしまったものである。

この不正義は、御庁の審理において、必ずや回復されなければならない。

第五、中川宏利の証拠申請却下の違法性について

一、控訴審において、弁護人は、二度の機会に亙り、中川宏利の証人申請をなした。立証趣旨は、同審において提出した申請書記載のとおりである。

ところで、被告人の平成八年一二月一一日付陳述書一二九ページ以下の記載のとおり、控訴趣意書提出後の平成八年五月から七月頃にかけて被告人及び弁護人らは、中川宏利と面談する機会を得た。そしてその結果、

『被告人と中川宏利との間での口裏合わせなど罪証隠滅工作を行った事実が存在しなかったこと』

『中川宏利の検察官面前調書記載の事実が全く違い、新宿西口メガネの株式の所有者は、被告人ではなく、株式会社トスであること』

『仮に、被告人が有罪であるとしても、その収入額に大きな違いがあり、ほ脱額の計算が大幅に減額されること』

が判明した。

中川宏利との前記面談において、明らかにされたのは次のとおりである。この点は、被告人の控訴審における被告人質問の結果、被告人の前掲陳述書一二九頁以下に明らかである。

a、中川宏利(以下単に「中川」という)は、被告人の経営する株式会社トスとの間で、自己経営のジャパンフードサプライズ株式会社(以下単に「ジャパンフード」という)の株式一〇〇株と、トス保有の新宿西口メガネの株式一万二〇〇〇株を、昭和六三年三月から四月にかけて交換したこと。右株式の交換は、控訴趣意書二二六ページ以下記載のとおり、当時ジャパンフードが進めていたオーストラリアの漁業権(マグロ漁)を、トスが共同所有する目的で、トスがジャパンフードの全株式の半分に相当する株式を取得するためであったこと。

b、中川の検察官に対する供述調書では、オーストラリアの現地法人である「ロング・ライン・フィッシャライズ・オーストラリア」(以下単に「LLFA」という)の株式と新宿西口メガネの株式を交換したと述べたが、当時、中川は勘違いをしており、真実はジャパンフードの株式と新宿西口メガネの株式の交換であること。

c、ジャパンフードの株式と新宿西口メガネの株式を交換したのは、ジャパンフードの株券の印刷をした昭和六三年二月一五日から数えて一~二か月後であったこと。

d、トスは、前記株式の交換後、中川とのオーストラリアのマグロ漁業の共同事業のため、オーストラリアの現地法人LLFAを中川と共同で設立し、LLFAの全株式の五〇パーセントの株式を保有したこと(被告人の前掲陳述書末尾添付の大蔵大臣宛「金銭の貸付契約に関する届出書」のその他の事項参照)。

e、トスは、LLFAの事業のために、総計金六億七〇〇〇万円もの出費をしていたが、マグロ事業は平成元年から同二年にかけて失敗に終わり、平成二年秋頃に、トスと中川との間で出資金の清算手続を行ったこと。

f、トスが出資した金六億七〇〇〇万円については、トスと中川との間で折半して清算したこと。

g、その清算のために、中川が負担すべき金三億三五〇〇万円については、中川がトスとの間で交換していた新宿西口メガネの株式の売却代金でトスに担保として扱いを任せてある金員である金三億円(一万二〇〇〇株×金二万五〇〇〇円分総計金三億円)を充てることにしたこと。

h、右清算は、相殺契約手続で行い、中川は新宿西口メガネの株式売却代金をトスに請求しないという形になったこと。従って、仮に被告人が有罪となったとしても、トスとの交換決済がなされた金三億円分は、もともと被告人の所得分ではなく、これに対する脱税はあり得ないこと。

i、検察官への供述調書の中で「有形無形」のジャパンフード・中川の資産で、この金三億円を相殺したと述べたが、ジャパンフードにはめぼしい資産がなく、資産といえるのは中川が権利を留保していた新宿西口メガネ株式売却代金しかなかったこと。

j、右相殺で不足した金三五〇〇万円については、トスから免除してもらったこと。

k、オーストラリアのマグロの共同事業の前に、ジャパンフードが進めていたエクアドルのマグロ事業に対するトスから借り入れた資金の清算は、右の清算とは別に行い、中川の妻が相続した横須賀市の土地建物を売却してトスに一億円支払い、残り九〇〇〇万円については、現在尚協議が続いていること。

l、国税局からは、午前中から午後八時近くまで事実上身柄を拘束され、取り調べと同様の事情聴取を受けたこと。

m、検察庁の取調べ前に、中川は、被告人からオーストラリアのマグロ事業のために、新宿西口メガネの株式を交換していることを覚えているか、そのことを話してくれればよいと言われ、新宿西口メガネの株式の交換の話を検察官に言ったが、検察官からは、新宿西口メガネの株式の交換は、ジャパンフードの株式とではなく、LLFAの株式との間ではないかと質問されたこと。

n、検察庁の最後の事情聴取の前に、中川は、被告人の弁護人から、オーストラリアの件は思い違いをしているので訂正してもらいたい旨の連絡を受けた一方で、被告人の秘書から、迷惑をかけるわけにはいかないので、そのままの流れで話をして下さいというメッセージが入ったため混乱し、同人は、被告人と検察官が何らかの取り引きをして問題は解決したのだと思い、検察官の作成した調書に乗らざるを得ないと考えた側面があること。

o、中川は、検察官の取調べは、とにかくいやで、早く帰りたくてたまらなかったこと、被告人が検察官との間で話をつけているのであれば、真実はいわばどうでもいいという気持ちをもって供述調書に署名押印したこと。

p、中川の供述調書の「ジャパンフードが負担する金三億三五〇〇万円余りの資金は、同社のエクアドルやオーストラリアの事業の有形無形の財産で相殺した」なる供述部分は、検察官からそうだろうと言われ、被告人と検察官の間で、この件について何らかの合意がなされていると考え、迎合して署名押印したが、ジャパンフードには有形無形の財産としては何もなく、あったのは中川の新宿西口メガネの株式売却代金三億円しかなかったこと。

q、検察官からは、被告人が中川への名義貸しを隠すために、オーストラリアの事業のために新宿西口メガネの株式を交換したように口裏合わせをしたのだろうと追求され、中川は何度も否定したものの、堂々巡りになり、やがて面倒くさくなり、早く帰りたい気分になって、「お宅がそう理解するのであればそれでいいではないですか」と答え署名押印したこと。

r、被告人と中川との間では、新宿西口メガネの株式の名義変更について、売ったことにしてくれとか、中川が買ったことにしておいてくれ等の口裏合わせを被告人から依頼された事実は全くないこと。

s、今回弁護人から、問題点を指摘され、中川は、自分が大変に影響のある供述をしてしまっていることを知り、何とか自分の供述部分を訂正したいと思ったこと。

二、以上、中川は、被告人及び弁護人に詳細に述べており(弁護人は、右事実を記した中川作成の詳細な陳述書をすでに入手済である)、その述べた事実は、本件事件に重大な影響を及ぼすものである。

すなわち、

1、中川は、三回にわたる取調べのうち、当初二回までは、オーストラリアのマグロ事業の件で、中川とトスとの間で新宿西口メガネの株式を交換した事実があったことを検察官に述べていたのである。しかし、それを三回目の取調べで撤回するに至ったが、その理由とするところは、第一に、中川は、新宿西口メガネの株式の交換については、オーストラリアの現地法人LLFAの株式との交換と勘違いをし、その勘違いで株式交換の時期的な混乱を起こしていたこと、第二に、中川は、第三回目の取調べの前に、弁護人からオーストラリアの事業の件を思い違いをしているので訂正してほしいと連絡を受ける一方で、被告人の秘書からは、迷惑をかけるわけにはいかないので、そのままの流れで話をして下さいというメッセージを受けて混乱し、その混乱から、被告人と検察官が何らかの取り引きをして問題は解決したのだと思い、検察官の作成した調書に乗らざるを得ない状況に追い込まれたことである。

2、したがって、中川の当初供述したオーストラリアのマグロ事業の件で、トスとの間で新宿西口メガネの株式を交換したことは事実であり、控訴審判決・第一審判決が指摘するような被告人と中川との間で罪証隠滅のための口裏合わせをしたという事実は全くないのである。

3、トスと中川との間で、中川の保有するジャパンフードの株式とトスの保有する新宿西口メガネの株式を交換した事実を証明する論拠は、次のとおりである。

<1> ジャパンフードは、昭和五四年に設立された会社であるが、昭和六三年二月一五日に株券を発行するまで、株券を発行していなかったのであり、同社が改めて株券を発行したのは、新宿西口メガネの株式と交換するためであったこと(弁四号証の株券参照)

<2> 現実にも、右株式の交換がなされ、被告人はジャパンフードの株券を現在まで所持していること。

<3> トスと中川のオーストラリアのマグロ事業の現地法人LLFAに対して、トスは六億七〇〇〇万円の出資したが、右事業が失敗し出資金の清算をしたこと(原審甲一六号証添付資料4「オーストラリアの事業に関する出金のメモ」参照)

<4> 右清算当時、中川の個人会社であるジャパンフードには何らの財産もなく、中川においては、トスで保留されていた新宿西口メガネの株式の売却代金三億円だけであり、これをもって中川の負担部分金三億三五〇〇万円に充てることにし、残り三五〇〇万円についてはトスから支払いの免除を受けたこと。

<5> オーストラリアのマグロ事業の前に、ジャパンフードで進めていたエクアドルのマグロ事業に対するトスの貸付金の清算については、前記清算と別に、中川の妻が相続した土地建物の売却代金一億円を支払い、残金九〇〇〇万円についてはその後の協議としたこと。

<6> 失敗したオーストラリアやエクアドルのマグロ事業において、ジャパンフードや中川に有形無形の財産として金三億三五〇〇万円に相当する財産が存在するとは常識では考えられないこと。したがって、中川の検察官に対し供述した「ジャパンフードが負担する金三億三五〇〇万円あまりの資金は、同社のエクアドルやオーストラリアの事業の有形無形の財産で相殺した」ことは、全く事実に反し、新宿西口メガネの株式がオーストラリアのマグロ事業のために交換されたとの当初の供述が正しいことになる。

4、トスは、ジャパンフードの進めていたオーストラリアの漁業権(マグロ漁業)を、共同所有する目的で、中川との間で、新宿西口メガネの株式とジャパンフードの株式を交換したのである。その交換時期も、昭和六三年三月から四月頃であり、さくらやに売却される半年以上も前である。被告人は、トスにオーストラリアの漁業権を取得させるために、同社保有の新宿西口メガネの株式とジャパンフードの株式との交換をしたのである。トスが事業主体であることの明らかな証左は、被告人陳述書添付の大蔵大臣宛「金銭貸付に関する届出書」その他の事項の「取引の相手方(LLFA)は届出者(トス)が五〇%出資しているオーストラリアの子会社である」の記載である。

トスは、新宿西口メガネの株式とジャパンフードの株式を交換することによって、ジャパンフードの進めていたオーストラリアの漁業権の共同所有者、オーストラリアのマグロ事業の共同事業主体者となり得たわけであり、このことは、新宿西口メガネの株式の所有者は、被告人ではなく、トスであったことを如実に証明するものである。

5、もし仮に、新宿西口メガネの株式の所有者がトスではなく、被告人であるとしても、新宿西口メガネの株式とジャパンフードの株式を交換した事実があり、さくらやへ売却した六万九六〇〇株のうち一万二〇〇〇株は、中川所有の株式であることから、被告人のほ脱額が少なくなり、違ってくるのは明らかである。

三、弁護人は、以上の事実が控訴趣意書を提出した後である平成八年五月ないし七月頃に判明したため、その後、控訴趣意補充書を提出した。しかしながら、控訴審記録に明らかなように、控訴審の主任弁護人山崎龍一が、急性膵臓炎のため平成八年八月上旬から同一二月末まで入院するという事態が発生したため、控訴趣意補充書の提出が遅れてしまった。控訴審弁護人は、控訴趣意補充書の提出は遅れたものの、被告人の陳述書を提出し、更には中川の証人申請書を二度の機会に亙り提出し、事実上の証拠調べをなすよう職権発動を促す努力もなした。しかしながら、控訴審は、右のような明らかにほ脱額に影響する事実の存在が伺える事情がありながら、その求めをいずれも却下し、事実調べを行うことをしなかった。確かに、控訴趣意書に記載される事項が控訴審における審理の対象となるものであるが、裁判所としては、事件の真実を発見し、適正な認定をなし、適正な刑罰権の行使をする義務があることから、職権にても事実調べをすることができる。本件の場合、被告人質問の結果及び被告人の前掲陳述書から明らかなように、中川宏利は、被告人が仮に有罪であるとしても、被告人の昭和六三年度の収入のうち金三億円が収入として除外されるか否かは、被告人の刑責を考える上で極めて重大な事実であり、且つほ脱額にも当然影響するものがある。従って、裁判所としては、刑事訴訟法全体の解釈から当然要請される、適正な事実認定・適正手続による審理の実現・適正な刑罰権の行使という見地から、中川宏利を証人として取り調べ、被告人の主張の当否について審理を遂げるべきであった。そして、これを取り調べることば、審理の期日を一期日設定するだけで十分に可能であり、そのために審理が著しく遅れる等の事情があればともかく、そのような事情が一切ない状況の下では、控訴審における二度に亙る証人申請に対する却下は、刑事訴訟法全体に謳われる審理充実の精神に反した違法があると言うべきである。

御庁におかれては、万一被告人が有罪であると判断されたとしても、原判決を破棄された上、これを東京高等裁判所に差し戻し、中川宏利の証人尋問の実施を求める決定を是非出していただきたい。

第六、結論

以上述べてきたように、被告人の本件事犯は、一見所得税法第二三八条第一項の構成要件に該当するかのごとくであるが、同条同項の解釈は、前述したように限定的に解釈されなければならず、本件被告人が単に他人名義の株式売買契約書を形式的に作成したことのみをもって、これが同項に記載される「偽りその他不正な行為」による脱税であると即断することは許されない。

控訴審判決は、所得税法第二三八条第一項の解釈を過った違法があると言わなければならない。

また、被告人の一連の行為には、脱税の故意を欠くものがあり、被告人の行為は過失脱税罪とも言うべき側面がある。故意を欠く者は、故意犯の刑責を負うべきではなく、いかに結果的に脱税をしたのと同様な結果を招来させたとしても、厳格な扱いがなされるべきである。その実質が脱税的であるからという判断・感覚を重視して採証法則違反・経験即違反の事実認定をなし、重大な事実誤認の結果をもたらしては絶対にならないのである。

更に、被告人の本件行為は、甚だしい思い込みによるところが大であるが、被告人自身の、実体は賃借権譲渡の契約に等しい株式譲渡契約を締結したという内心の意思は軽々に扱われるべきではなく、法律の不知はこれを罰すると言いつつ自白を求めた検察官の言葉からも明らかなように、被告人自身、本件の株式譲渡契約に基づき支払われた代金は、課税の対象とはならないという思いこみがあり、このため違法性の認識をまったく欠いていたと言うことができる。弁護人は、控訴審において、被告人の予備的主張として法律の錯誤を主張し、被告人には違法性の意識が欠落していたことから、脱税の故意を欠くことを指摘したが、本件の場合は、正に被告人には違法性の意識が欠落していた事案と言うべきである。

また、被告人の内心の意思・考えがいかなるものであったかを知るためには、被告人の置かれていた当時の状況、取引の経緯、新宿西口メガネの置かれていた環境、被告人の用意した増資資金の出所、株式売却代金の使途、株式譲渡契約の解約申し出とこれに伴うペナルティ資金の用意、和解金の使途をはじめ、様々な事情を総合的に検討した上で判断されなければならず、こうした事情を前提に、被告人の検察官に対する供述調書の証拠力・信用性が判断されなければならない。そして、供述調書なるものが作成された経緯は、とりわけその信用性を判断する上で重要視されるべきものがあるところ、被告人は、検察官から保釈を肯定する見解、税法は形式で判断するという言葉を再三に亙り繰り返された等の事情から、捜査段階においてすでに提出されたとおりの供述調書が録取されたのであるが、被告人がこれ程までに主張している事情が一切供述調書の中に反映されておらず、そればかりか、裁判という過程の中において余裕ある時間を与えられて整理された精神状況の下で述べられた主張に比較すると、あまりに一方的なかつ自己に不利な内容ばかりが羅列されている体裁を一見するだけで、その信用性に大いなる疑問が生ずることが否定できないのである。検察官の供述調書を控訴審判決、第一審判決は絶大なものとして評価しているが、そうした追従的姿勢は大いに批判されなければならない。被告人の供述調書には信用性が乏しいものがあると言わなければならない。御庁におかれては、その信用性判断のために十分な吟味と検討をお願いしたい。

加えて、控訴審は、弁護人請求の中川宏利にかかる二度に亙る証人申請を却下し、且つ職権に基づくこの証人の取り調べをも拒否した。中川宏利は、被告人質問の結果・被告人の陳述書からも、被告人の昭和六三年における収入及び仮に有罪になった場合のほ脱額の算定の上で極めて重要な鍵を握っている人物であることが明らかであるが、そのような事情が存在することが明かな状況下で、弁護人申請の証拠調べ請求を却下し、また職権にてこれを取り調べるべく求めた職権発動の求めに対してもその職権を発動しないとして結審した控訴審は、いかに考えても審理を尽くしたということができないものがあり、適正な事実認定、適正手続による審理の実現、適正な刑罰権の行使という側面から許されないものがある。御庁におかれては、被告人の平成八年一二月一一日付陳述書及び被告人質問の結果等を総合的に再検討され、当該証人の取り調べの必要性についてこれを是とする決定をいただきたい。

弁護人は、被告人の本件にかかる一連の行為が、脱税を犯した者して説明をすることができない多くの矛盾点を、控訴趣意書、弁論要旨、または被告人の言葉である陳述書を通じて指摘してきた。本件上告趣意書においても、繰り返しを避け必要な範囲で再論したが、弁護人は、被告人において、いかに考えても脱税をなすという故意は認められず、所得税法第二三八条第一項に規定する『偽りその他不正な方法』なる行為も存在しないと考えている。被告人の一連の行為の中には、本件株式譲渡契約に基づく代金について、これを他人名義の通帳に預託するとか、第三者に現金を預託するとか、自己の支配下にこれを隠匿するとか、第三者の所得として認定されるような画策をするとか、通常の脱税事犯においてよく見られる典型的な行動が一切見られないことを強く指摘したい。通常の脱税事犯に見られるこうした行動パターンがないということは、被告人において、『偽りその他不正な行為』という事実がないことを如実に示すばかりか、脱税という認識をしていなかった、すなわち脱税の故意すらなかったことを端的に示すものがあると言え、弁護人は、被告人の本件の一連の行為が脱税にあたるとはまったく考えていない。本件は、言ってみれば『過失脱税罪』とも言うべき事犯であり、そうした構成要件が現行の所得税法に存在しない以上、被告人は無罪とならざるを得ない。

裁判においては、事実認定、証拠の証明力の判断、採証にあたっては、謙抑的に裁判権の行使がなされなければならず、そうした作業には慎重を期すべきはもちろん、常に被告人の権利・防御権等に配慮しながら充実した審理が行われなければならない。何ら脱税の故意をも有さず、ある日突然に脱税事犯として追求されることになった被告人にとって、自己の主張を声を大にして述べることができるのは裁判所だけである。裁判所は、被告人のこうした悲痛な叫びに対し、謙虚に対することをもって審理を遂げるべきである。そして、単に形式的な証拠だけに目を奪われることなく、証拠の持つ背景、裏側に存する事情等を鋭く感知・分析して、各種の証拠の証明力を判断し、適正な事実認定作業をなした上で法律の適用にあたるべきである。

弁護人は、第一審及び控訴審においても、こうした望まれるべき裁判権が行使されたと考えることはできず、その思いは被告人も同様である。

御庁におかれては、弁護人・被告人が指摘する多くの事実について、慎重に審理を遂げられ、被告人が本件事件において、いかなる側面からも無罪であることを宣言していいただきたいと強く願うものである。

以上

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